「やはり 瞬は誤解しているような気がするんだが……」
何かがおかしいと感じる紫龍の違和感は、日を重ねても消えることはなかった。
消えるどころか――瞬の日本語はおかしいと感じる者は紫龍だけではなくなっていた。
瞬の日本語に違和感を覚える者たちは 城戸邸内に どんどん増え、やがて その割合は98パーセントに達したのである。
すなわち、その違和感に気付いていないのは、当事者である氷河と瞬だけという状況で、ついに事件は起こったのだった。

事件の発端は 氷河の告白。
親切で優しく可愛い瞬に、氷河が、
「俺はおまえが好きだ」
と告白したこと。
その告白が、これまで誤解の上に築かれてきた和やかな日々に終止符を打つことになってしまったのだった。
氷河に好きだと言われた瞬は、それが特別な好きだということに気付きもせず、ごく自然に頷き、そして、
「僕も好きだよ。大好き。僕のヒョウガだもの。僕、僕のヒョウガは みんな大好きなんだ」
と答えた。

「氷河はみんな……?」
もともと日本語は“少し”しか――日常生活に支障をきたさない程度にしか使えない。
瞬の日本語を奇異に感じることは これまでにも しばしばあったのだが、そういう時 氷河は、その奇異の原因を自分の日本語の理解力が足りないせいなのだと思っていた。
しかし、どう考えても瞬のこの日本語は変である。
「うん、もちろん。あ、そういえば、君の名前は何ていうの?」
「え?」
それまでは変なだけだった瞬の日本語が、その瞬間、氷河にとって まるで理解できないものになる。
氷河は、自分が瞬に何を言われたのか、一瞬――否、優に数分間――完全に理解できなかった。

混乱する心に邪魔されながら混乱する頭で数分間考えて、わかったのは、『瞬は自分を好きでいるわけではない』ということだけ。
瞬は、氷河という個人を好きでいるのではないということだけ。
だが、氷河には、それだけで十分だったのである。
悲しみ、苦しむ理由として、それは十分すぎるほどに大きな衝撃だった。


「俺を好きだって言ったのに……! 大好きだって言ったのに……!」
戦って勝つことはおろか 逃げ出すことも不可能なほど強大な敵に出会ってしまった獣が吠えるように低く悲しげに、あるいは、地響きが大地を這い伝わるように重く苦しげに、氷河が呻く。
その声は、氷河の告白現場に 彼の仲間たちを呼び寄せることになった。
「俺を好きだって……俺を好きだって……!」
氷河が繰り返す その言葉で、紫龍は事の次第を――今 氷河と瞬の間で何が起こったのかを悟ったのである。
「やはりそうか。瞬、おまえは『友だち』のことをロシア語で『ヒョウガ』と言うのだと思っていたんだろう?」
千々に乱れる心。
紫龍の その言葉で 氷河は、瞬の日本語が変な訳を知ったのである。
否、変なのは、瞬の“ロシア語”だったということを知らされてしまったのだった。

氷河を指差して、瞬は、『何て言うの』と氷河に尋ねた。
名を訊かれたのだと思い、氷河は『氷河』と答えた。
だが、瞬は、あの時、ロシア語で『友だち』を何と言うのかと尋ねたつもりだったのだ。
「違うの? ロシア語では、友だちのことを『ヒョウガ』って言うんでしょう?」
「違う。氷河というのは名前なんだ。氷河の」
「氷河……氷河が名前?」
つまり、そういうことだったのだ。
瞬は氷河を好きなわけではなかった。
瞬が好きなのは、ヒョウガ――すなわち、“友だち”全般で、氷河個人ではなかったのだ。

その時――衝撃の事実が判明した その時、その場に立ちあっていたのは、紫龍、星矢、瞬の兄たちだけでなかった。
他の子供たちも、いったい何が起こったのかという野次馬根性に突き動かされて その場に集まり始めていた。
どれほど傷付いても、ここで泣き出すわけにはいかない。
悪気のなかった瞬を責めるわけにはいかない。
だから、氷河は 歯を食いしばったのである。懸命に。
だが、氷河は、その瞳からあふれ出る涙を止めることはできなかった。
なにしろ、涙というものは、歯の間からではなく目から あふれてくるものなのだ。

母を失い、たった一人きりになって不安だけを持たされ連れてこられた見知らぬ国で、初めて優しくしてくれた人。
それが素晴らしく可愛らしく綺麗な子で、氷河は瞬に特別に好かれたいと願い、彼なりに努力もした。
瞬に『大好き』と言ってもらうことができ、その努力は報われたのだと思っていたのに、見知らぬ国で 自分はもう一人きりではなくなるのだと思いかけていたのに、氷河の恋は――その努力も――すべては空回りだったのである。
氷河の涙は止まらなかった。

「瞬は……俺を好きなんじゃなかったのか? なんでだ? なんで、今になって そんなことを言うんだ……?」
『俺は、こんなに瞬が好きなのに!』
氷河がその胸中で、その言葉を ロシア語で叫んだのか日本語で叫んだのかは、瞬にも瞬の仲間たちにも――もしかしたら氷河自身にも――わかっていなかった。
それは誰にもわからなかったが、氷河の悲痛な訴えは、その場にいる すべての人間に はっきりと聞こえていた。
もちろん、瞬にも。

自分が氷河を傷付けた。
滅多に感情を表に出すことがなく、ほとんど 笑うことも怒ることもしない氷河を、自分が泣かせた。
その場にいた子供たちは、氷河が泣いていることに、『氷河でも泣くことがあるのだ』と驚ろいていたのだが、瞬は、自分が氷河を泣かせてしまったことに――なにしろ、他人を泣かせるなどということは、瞬には それが初めての経験だったので――氷河以上に驚き、衝撃を受け、混乱していたのである。
歯を食いしばって 滝のように涙を流し続けている氷河の服の両袖を掴み、瞬は必死に訴えた。

「ご……ごめんね、氷河。でも、嘘じゃないよ。僕、氷河が好きだよ。氷河が大好き」
「嘘だ……嘘に決まってる……!」
氷河は 必死に こらえようとしているのに 氷河の涙は止まらない。
こらえようとすればするほど、それは次から次へとあふれ、流れてくる。
そして、氷河の涙のせいで、瞬は泣くことができなかった。
代わりに、瞬は、懸命に氷河を好きだと訴え続けた。

「ほんとだよ。氷河は綺麗だし、一緒に あやとりしてくれて優しいし――僕が氷河を嫌いなはずないでしょう?」
「ほんとか?」
「うん。ほんと」
「俺を好きか」
「うん。好き」
「大好き?」
「大好きだよ」
「俺を いちばん好きか」
「え……」

“友だち”に1番目、2番目と序列をつける考えが、瞬には なかった。
それは瞬には持ち得ない思想だった。
だから、瞬は、氷河に そう問われて 答えに詰まってしまったのである。
その様子を見た氷河の瞳から、また新たな涙が盛大にあふれてくる。
瞬は もうなりふり構ってはいられなかった。
自分の主義や価値観など どうでもいい。
今 自分のせいで嘆き悲しんでいる人の涙を止めることができるのなら、命も惜しくない。
氷河の涙を止めることが――それだけが――今の瞬の唯一の望みだった。

「僕は 氷河がいちばん好きだよ!」
「ほんとか?」
「ほんとだよ」
「ずっとだぞ」
「うん、ずっと」
「俺を、ずっと、いちばん好きでいるんだぞ」
「うん」
「忘れるなよ」
「忘れないよ」
「絶対に絶対に絶対に忘れるな。おまえは俺を、ずっと、いちばん好きでいるんだ」
「うん。僕は、絶対に氷河を ずっと いちばん好きでいる。だから、氷河、泣かないでよ」

瞬の言葉を、それでもまだ氷河は信じ切ることができなかったらしい。
瞬の その言葉が その場逃れの空約束でないことを確かめるように、氷河は瞬の瞳をじっと見詰めた。
そこにあったのは、これ以上 氷河に新しい涙を生ませないためになら何でもすると決意しているような決死の眼差し。
瞬の瞳をじっと見詰め――たっぷり3分間以上見詰め――瞬が その瞳を逸らさないことを確認すると、氷河はやっと その唇を引き結んで 瞬に頷いたのだった。

「なら、泣くのをやめる」
氷河が そう宣言した途端に、今度は瞬の瞳に涙がにじみ始める。
氷河の言葉に安堵して緊張の糸が切れたのか、瞬は身体中の力が抜けたように その場にへたり込んでしまったのだった。






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