「瞬。おまえがもし、俺を好きでいなければならないと思っているのなら、そんなことはないんだ」 氷河が瞬に そう言っているのを、星矢と紫龍が聞くことになったのは、その日の夕刻。 庭の桔梗の青紫色が、オレンジ色の陽射しを受けて、ほとんど青色に見える頃。 あと10分もすれば太陽も沈み、桔梗の花は濃い藍色に変わるだろうという時刻。 短い時間の間に 世界の色が最もダイナミックに変化する あの時間のことだった。 「氷河の奴、呪いを解くつもりなのか……?」 白い花をつけ始めた銀木犀の木の陰に慌てて身をひそめた星矢は、ひどく きまりの悪い思いで そう呟くことになったのである。 星矢は、卑下する振りをして その実のろけているだけの氷河を やり込めたいと思ってはいたが、決して氷河と瞬の関係が破綻することを望んでいたわけではなかったのだ。 紫龍も その点は星矢と似たり寄ったりの考えでいるらしく、この事態を喜んでいるようには見えなかった。 「まあ、我儘で視野狭窄のマザコン男だが、奴が瞬を好きな気持ちは本物で、誠実なものだからな。瞬を理不尽な力で縛りつけておくのは、氷河の本意ではないだろう」 「うん……」 だから、視野狭窄の我儘男でも許せるのだ。 不誠実な行ないで氷河が瞬を傷付けることはないと信じていられるからこそ。 だが、氷河は今、瞬の前で誠実であろうとするあまり、(もしかしたら)瞬を傷付け悲しませようとしている。 そんな事態は――それこそ、星矢の本意ではなかった。 「俺、余計なこと言っちまったかな……」 後悔先に立たずとは よく言ったもの。 今になって星矢は、自身の軽はずみな発言を悔やむことになった。 「瞬は どうせ、あれが氷河でなくても命がけで助けたに決まってるんだし、別に氷河と瞬がくっついてたって、何の問題もないのに……。むしろ、瞬が氷河の手綱を取って あの馬鹿の暴走を止めてくれてれば、周囲の俺たちにも何かと都合がいいし、瞬だって氷河と一緒で楽しそうにしてるのに……」 恋人の前で誠心を貫こうとする氷河の態度は立派なものだが、それで氷河と瞬の仲が破綻することになっても、得をする者はいない。 誰もが今より不幸になるだけである。 世間には『嘘も方便』ということわざがあり、日本国憲法は 自分に不利益な供述を強要されない権利を国民に認めているではないか。 「なあ、止めた方がよくないか?」 天真爛漫、天衣無縫、明朗会計の馬鹿正直を身上にしている星矢が、らしくないことを言い出した時だった。 仲間の恋路を案じる星矢と紫龍の前で、思いがけない展開―― 一種異様な展開が 繰り広げられ始めたのは。 「氷河、もしかして、僕のこと嫌いになったの?」 瞬が泣きそうな声で そう言い出した時、星矢と紫龍はそれを変なことだとは思わなかった。 瞬にしてみれば それは当然の疑念、むしろ こういう場面ではありふれた言葉、陳腐ですらある展開だと思っていたのである。星矢と紫龍は、その時はまだ。 「何を言う。そんなことがあるはずがないだろう」 氷河が瞬の言を否定し、 「だったら、どうして?」 瞬が反問する。 それもまた極めて妥当、まだまだ 一般的な展開だった。 「たとえ無意識のことだとしても、結果的に俺が おまえの意思を捩じ曲げているのなら、俺はそんなことはしたくない。それで おまえが俺のために命を落とすようなことがあったら、俺は悔やんでも悔やみきれない」 「氷河、なに言ってるの。僕、全然 意味がわかんないよ。やっぱり氷河は 僕を嫌いになったんだ。だから急に そんなこと言い出したんだ……」 確かにそれは、瞬にとっては青天の霹靂と言っていい提案(?)だったろう。 瞬は、何といっても、今日 氷河が、幼い頃に彼が瞬にかけた呪いの事実を思い出したことを知らないのだから。 瞬が その瞳から ぽろぽろと涙を零し始めるのも当然といえば当然、極めて自然な成り行きだった。 「違う。俺はおまえが好きだ。好きだからこそ、おまえの意思を曲げるようなことはしたくないんだ」 氷河が そう言って、瞬に対する自分の気持ちが いささかも変わっていないことを告げるのも当然――至極 当然。 しかし、そのあとが“当然”ではなかったのである。 否、もしかしたら、それは瞬にとっては当然のことだったのかもしれない。 それを“当然”とは思わず“異様”と感じたのは、星矢と紫龍だけだったのかもしれなかった。 氷河に『俺はおまえが好きだ』と言われた途端、絶望の淵で小さな希望の光に巡り会った人間のように、その希望を我が物にできなかったなら もはや自分には死あるのみと悟った人間のように、瞬は その希望の光に食らいついていった。 「僕のこと好きだから? ほんとに?」 「本当だ」 「ほんとに僕のこと好き?」 「ああ」 「大好き?」 「もちろん」 「いちばん好き?」 「決まっているだろう」 「ほんと?」 「本当だ」 「ずっと?」 「ずっとだ」 そこまで氷河の言質をとってからやっと、瞬は泣くのをやめた――少なくとも 新しい涙を生むことはやめたようだった。 それまで涙混じりだった瞬の声が、平生の――平生以上の――明瞭さと、畳み掛けるような力強さを帯び始める。 「氷河は、僕のこと、ずっと いちばん好き?」 「俺は、おまえのことが、ずっと いちばん好きだ」 「ずっと、僕のこと、いちばん好きでいてね」 「ああ。ずっと、おまえのことを いちばん好きでいる」 「約束だよ」 「神にでもマーマにでも誓う」 「うん、約束」 「ああ」 「なら、許してあげる。もう変なこと言い出さないでね」 瞬の声をしか聞いていなかった星矢たちとは違い、(おそらく)涙に濡れた瞬の瞳や、恋人の突然の冷たい言葉に傷付き悲しんでいる瞬の表情を見せられていた氷河には気付くことができなかったのかもしれない。 瞬の声が不思議な力強さ――まるで、魔法使いが呪文を唱えているような、催眠術師が被験者を誘導しているような、宗教家が信者の心を酔わせ操ろうとしているような――不思議な響きの声で氷河に語りつけていたことを。 氷河自身は、自分がその力に屈し、支配されてしまったことに 全く気付いていないようだった。 氷河は、気付きようもなかっただろう。 幼い頃 氷河にかけられたものと同じ呪いを氷河にかけ終えると、瞬は、たった今 自分が呪いで氷河を支配したこと自体を忘れてしまったように 氷河の胸にしがみつき、その胸の温もりがないと生きていくことができない子猫のように 氷河に甘え始めたのだから。 『詰まらぬことで瞬を泣かせ 不安がらせてしまった俺は、二度とこんなことをしてはならない』 今 氷河の頭の中にあるのは、せいぜいそんな決意ばかりで、彼は、自分が瞬に呪いをかけられたことなど意識してもいないに違いない。 たった今のやりとりを、氷河が――もしかしたら瞬も――憶えていないということも、大いにありそうなことだった。 「平安期、陰陽師は、人に呪いをかける時、呪いをかける相手と自分の分の墓穴を用意してから、呪いをかけたそうだが……」 「人を呪わば 穴二つってやつか」 氷河と瞬が本格的なラブシーンに突入してしまったので、星矢と紫龍は 二人に気付かれぬよう、そっと その場から退散した。 完全に氷河と瞬の姿が見えなくなり、二人のやりとりを聞くことができなくなり、こちらの声もまた氷河たちに聞こえる心配のない場所まで移動してから、星矢と紫龍はやっと自分の心身を緊張から解放することができたのである。 「役者は入れ替わってるけど、ガキの頃の再現ドラマを見てる気分だったぜ。もしかして、あの二人、互いに呪いをかけ合ってるのか」 「そんな感じだったな。だが、あの二人には その自覚がない」 当人たちに自覚のないことを、第三者が脇から あれこれと意見を言っても無意味、無駄。 それはわかっているのだが、星矢と紫龍は、たった今自分たちが目撃した 氷河と瞬の呪われた恋のありように、感嘆の吐息を禁じ得なかったのである。 |