その城は、氷の城と呼ばれていた。 とはいえ、もちろん城が氷で できているわけではない。 今から100年ほど前に建てられたという その城は、冬になって大地や山が白く染まると、周囲の色に溶け込み、その壮麗な姿が消えてしまったような錯覚を人々に与える白亜の城。 雪が融け 周囲が木々の緑や色とりどりの花でいっぱいになると、白い城は、雪の頃とは逆に まるで そこにだけ冬が残っているように存在を誇示し始める。 その姿は、『明るく暖かい陽光の中でも冬の厳しさを忘れるな』と、城を見上げる領民たちを戒めているようにも見えるのだった。 とはいえ、その城が氷の城と呼ばれているのは、冬の帝王か雪の女王が住まうにふさわしいと思える城の威容のせいだけではない。 民に その城を氷の城と呼ばせているのは、城そのものより 城の主の方だった。 氷の城には、その城から見える限りの土地を治めている公爵が暮らしている。 広大な領地に 多くの農民や軍兵を抱えているというのに 滅多に人前に姿を見せず、本当にいるのか、もしかしたら死んでいるのではないかという噂が立つほど、その存在が疑われている謎の人物。 もし生きている存在するのなら、よほどの人嫌いなのか 外出嫌いなのか。 あるいは、身体に何らかの障害があるのか、人に姿を見せられないほど醜悪な容貌の持ち主なのではないか。 そう噂されることもあるほど、彼は謎めいた人物だった。 それでも、彼の広大な領地は支障なく管理運営されている。 秋の収穫時には 税として農作物が徴収され、願い出れば 道の整備をし、橋を架け、領民たちの集会所を作り、飢饉の際には備蓄してある麦が放出された。 それは、その有能さを皇帝に気に入られて この広大な領地を与えられた先々代の公爵が、自身は宮廷に侍るために領主が領地に不在でも つつがなく領地運営が為される仕組みを作っていたから――と言われていた。 もっとも、当代の公爵は、宮廷に伺候し皇帝の機嫌を取ることもせず、氷の城の中に閉じこもっている。 当代の公爵は、華やかな宮廷で大貴族の一人として もてはやされることにも、より高い地位を得ることにも、より多くの財を蓄えることにも全く興味がないようだった。 彼が いったい何を望んでいるのか、何を人生の喜びとしているのかを、誰も知らない。 それだけで、公爵は 彼の領民たちにとって不可解な謎の人物だったのである。 無論、下々の者は、そんなことを知らなくても その生活に支障が出ることはない、 その上、公爵の領内の民の暮らしは、他の領地の民のそれに比べると 極めて豊かで落ち着いたものだったので、現状に満足している者たちは あえて公爵の謎を暴くことなど考えもしなかったが。 「私等の公爵様は、シベリア公と呼ばれているけど、それは実在する地位じゃないんだよ。ただの通称なんだ。でも、シベリア全土が公爵様の領地みたいなものだから、その名は どこに行っても通じるだろうけどね」 領民のほとんどが、その姿も 人となりも知らない公爵。 瞬が その公爵の城にあがることになったのは、若く健康であるということの他に、大人しく控えめで詮索好きでなく、口が堅い点が買われたからのようだった。 それまで氷の城に裁縫師のまとめ役として勤めていた老女が職を辞する際、自分の村出身の奉公人が氷の城に一人もいなくなることを憂えて、瞬を公爵の侍者に推薦したのである。 子供のない彼女は、親のない瞬を 幼い頃から可愛がってくれていたが、公爵が 身軽で気の利く侍者を求めていると聞いて、真っ先に瞬の顔が思い浮かんだのだという。 「本当は若い娘でも送り込みたいところなんだけど、若い娘に公爵様は毒だからね。おまけに若い娘は お喋り好きだし、公爵様は騒がしいのが大嫌いなんだ。だけど、おまえは、沈黙を守らなければならない時には ちゃんと黙っていられる子だ。騒がしくして 奉公にあがった途端に お城から追い出されることもないだろう」 「僕が氷の城に?」 職を辞して村に帰ってきた老女から、一両日中に氷の城に行くようにと言われ、瞬はひどく驚いた。 公爵の側近くに侍ることができるのは名誉なことなのかもしれないが、なにしろ あまりに急すぎる。 「この村を代表して行っておくれ。おまえは自分の畑も持っていないし、住んでいる家も借りものだ。係累もなくて身軽だろう。それに、何といっても花のように綺麗だしね。シベリア公の機嫌を損ねさえしなければ、お城勤めは 借り物の畑を耕しているより ずっと楽だよ。勉強もさせてもらえるし、お手当てもいい。10年も勤めれば、自分の畑が持てるようになるだろう」 そう言う彼女は、この村で1、2を争う土地持ちで物持ちだった。 瞬に読み書きを教えてくれたのも彼女である。 彼女の言うことは、おそらく事実なのだろう。 だが、瞬は、貴族の社会の礼儀作法も知らなかったし、貴人への仕え方など、なおさら知らない。 本当に、ただの みなしごである。 自分に公爵の侍者が務まるとは、瞬にはどうしても思うことができなかった。 「そんなことは心配しなくても大丈夫だよ。おまえは賢い子だ。そんなものは すぐに覚える。別に貴族になれって言ってるんじゃないんだからね。あの城に勤めるのに いちばん大事なのは、余計なお喋りをせず、口が堅いことだよ」 瞬が不安を訴えると、彼女はそう言って、瞬の不安を一蹴した。 実際に30年以上 氷の城に勤めていた彼女がそう言うなら、それは おそらく事実である。 そうなのかもしれないと、瞬も思い始めていた。 だが――。 「……シベリア公は本当に存在するの」 何より、それが知りたいこと。 老女は、いったい瞬は何を言い出したのかと言いたげな顔を瞬に向けてきた。 「そりゃ、もちろんだよ。土地の管理、領民の管理に税の管理まで、すべての実務は家臣がこなしてるけど、最後に命令書に承認の印を押すのは公爵様だからね」 氷の城の事情を外部に漏らすことは厳に禁じられているのだそうで、これまで彼女は、休暇で村に帰ってきても 彼女の勤め先のことを話してくれたことは一度もなかった。 が、瞬がお城にあがることを決定事項にしている彼女は、これまでとは打って変わって、今日は口がなめらか。 その秘密は 瞬が城にあがれば どうせ知れること――そう 彼女は考えているようだった。 「公爵様は お気の毒な方なんだよ。ほとんど城から出ずに、お城に閉じこもっていて」 「お身体が不自由なの?」 「とんでもない。お身体は頑健だよ。押し出しはいいし、背も高いし、気性も荒くない。ちゃんとした紳士、貴族様さ。ただ――」 「ただ?」 「公爵様は呪われているんだ……」 「は……?」 呪いとはまた、何と不気味な言葉が出てきたものか。 いったい彼女は何の比喩で そんなことを言い出したのかと、瞬は呆けてしまったのでる。 ぽかんとしている瞬の前で、彼女は、急に何事かを思いついたように深く頷いてみせた。 「そうだね、もしかしたら、おまえがお城にあがることは公爵様のためにもなることかもしれない。瞬、おまえは小さな頃から優しい子だった。公爵様を救うことは無理でも……お心を慰めておやり」 「……」 瞬が氷の城に行き 公爵に仕えることを決意したのは、彼女の説得に動かされてのことではなかった。 むしろ、彼女の言葉の意味がまるでわからなかったから――自分は氷の城に行き、彼女の言葉の意味を知らなければならないような気がして、不思議な力に突き動かされるように、瞬は氷の城に向かったのである。 |