シベリア公の城は、呪われた城、氷の城というより、幻想の城、夢の城とでも呼ぶ方が ふさわしい、実に美しい城だった。
高い塔がいくつもある、おとぎ話の世界にあるような白亜の城。
広い庭園には針葉樹の林があり、別邸があり、厩舎があり、温室があり、それらの建物はどれもが、瞬が暮らしていた村の家の何倍も何十倍も大きく豪奢。
城の内部は更に豪華で、金と宝石と絹だけでできているのではないかと思えるほど。
広間にも廊下にも――おそらく すべての部屋の天井や壁にシャンデリアが輝いていて、陽光が届かない部屋も闇に沈むことはなさそうだった。
神や天使たちのいる天上の世界が こんなふうなのではないかと、瞬は思ったのである。
1本の蝋燭で夜の闇を しのぐような暮らしをしていた瞬には、その城は まさに夢の国の城だった。

ただし、その城は 恐ろしく静かで、命の息吹や生活感といったものが 全く感じられない城でもあった。
これほど規模の大きな城を清潔整然と保つためには 相当数の使用人の力が必要なはずなのに――実際、この城には多くの使用人がいるのだろうが――人の声はおろか、物音ひとつしない。
騒がしいのが嫌いな公爵の意に沿うよう努めているのだとしても、その静けさは死の世界のそれと錯覚してしまいそうなほどだった。

「この部屋は、公爵様の聖域。使用人には 本来は入ることも許されないのだが、下働きの者と違って、公爵様の身のまわりの世話をする者が知らずにいるわけにもいかないのでね」
瞬を公爵の許に案内してくれた壮年の執事の声は 落ち着いて穏やかなものだったが、それが無音の城の中では不気味に木霊する。
村で暮らしていた家とは比べものにならないほど広く 贅沢な家具のある部屋や清潔で温かい衣服を、新しい奉公人のために準備しておいてくれた親切な人の印象をさえ全く変えてしまうような静寂の城。
こんな雰囲気を好む公爵というのは いったいどんな人物なのか。
主が不在の食堂、執務室、居間、寝室、浴室、衣裳部屋を次々に案内され、いよいよ公爵と対面するための部屋の前に連れてこられた時、瞬の緊張は極限に達しかけていた。

「そんなに緊張する必要はないし、委縮することもしないでいい。公爵様は乱暴な方でも横暴な方でもない。気に入らない者はすぐに城から 追い払ってしまわれるが、その際にも特段の罰を与えることはしない。おまえは実に綺麗だし、あの老嬢の推薦なら、賢く素直なたちでもあるんだろう。口数少なく 実直に務めを果たしていれば、きっと公爵様に気に入っていただける。公爵様は、お気に召した者は長く使うし、厚遇する」
「だといいのですけど……」
「この部屋での最初の対面で ご機嫌を損ねさえしなければ、大丈夫だろう」
「……」

公爵様の聖域――と、執事は言う。
いったい この部屋に何があるというのか。
緊張する必要はないといわれても、緊張せずにはいられない。
執事の手によって運命の扉が開けられるのを、瞬は 息を止めて見詰めていた。

「新しい お世話係を連れてまいりました」
そう言って、執事が瞬の肩を押し、室内に入るよう促す。
彼は対面の場に同席してくれないらしい――そうすることは許されていないらしい。
瞬が一歩、公爵の聖域に足を踏み入れると、磨き抜かれた樫でできた重々しい扉は、その扉を開けた者自身の手で閉じられた。
一人 その場に残された瞬は、室内に公爵らしい人物の姿を見付けられないことに戸惑い、そして、公爵の代わりに そこで見付けたものに驚き、息を呑んだのである。

その部屋は聖堂の佇まいを有した部屋だった。
金も宝石も きらめくシャンデリアもない。
大理石の壁、大理石の柱。
窓のない部屋に光を運んでくるのは、数本の蝋燭が立てられた2つの燭台のみ。
対になっている2つの燭台が置かれているのは、部屋の正面奥にある祭壇の両脇。
そして、その祭壇の上には、若く美しい一人の女性が眠っていた。
長い金髪。
周囲には無数の花が敷き詰められている。

どう見ても生花にしか見えない それらの花たちは、だが、どの花にも しおれた様子がなかった。
花瓶に活けられているわけでもないのに、たった今 切り取られてきたばかりの花のように鮮やかな色を保っている。
理由はすぐにわかった。
その美しい女性は、ただ横になり眠っているのではなく、冷気に包まれていた。
というより、彼女自身が凍りつき、周囲に冷気を放っていた。
その冷気が花を凍りつかせ、彼女同様に、いかなる変化をも拒絶するものにしているのだ。
生きることも枯れることも許されない、死の世界に属する花に。

だが、美しい。
瞬の中で『彼女に触れるのは危険』と訴える激しい警鐘が鳴り出したのは、彼女が その身にまとっている冷気より、彼女の美しさに、瞬の心が反応したせいのようだった。
氷など及びもつかないほど冷え切っているのに、彼女は花の女神にこそ ふさわしい容貌をたたえていた。

(なんて綺麗な人……)
その美しさに感嘆し 眠れる花の女神から視線を逸らせずにいた瞬は、やがて 誰かが自分を見詰めていることに気付いた。
冷たく、刺すような視線。
だが、瞬は、同時に その視線を 炎で熱く熱せられた鉄の剣の切っ先のようだとも感じたのである。

「死体を見ても、驚いて腰を抜かしたり、悲鳴をあげて騒いだりしないのは結構なことだ」
その声は、瞬の背後から響いてきた。
どうやら彼は、瞬が入ってきた扉の脇に立って、ずっと瞬の様子を窺っていたらしい。
窓のない部屋の、灯りの届かない薄闇の中から、彼は ゆらりと姿を現わした。
「彼女は、死んではいないがな」

その人は、薄闇の中でも輝きを失わない金色の髪を持っていた。
凍れる女神を左右から照らし出している燭台に近付くにつれて、彼が若く、たくましく、そして美しい青年だということが見てとれるようになる。
ここは公爵の聖域だと、瞬を案内してくれた執事は言っていた。
下働きの者は入室も許されない、特別の場所だと。
彼は、使用人には見えなかった。
光沢のある黒い絹の上着、裾や袖口には 白い絹糸で施された複雑な意匠の刺繍。
そして、人に使われたことなどないような――彼がこの世界の王であると言っているような――畏れの色が全くない冷淡な眼差し。

てっきり白い髭を蓄えた老体なのだろうと思っていたのに、氷の城の公爵は若い――若すぎるほど若い――青年だった。
歳の頃は、20前後。
老侯爵とは、とてもではないが呼ぶことはできない。
どれほど多く見積もっても、瞬より4、5歳 年上なだけの若者だった。
瞬は、彼の若さ、美しさ、そして氷の感触を持った印象に驚かされたのである。

「あ……あなたがシベリア公……?」
「そんな呼称はない」
声の冷たい響き。
『すみません』の一言を言うことさえ、瞬にはできなかった。
彼の前で“騒がしく”できる人間などいるものだろうか。
そんな人間がもし この地上に存在するのだとしたら、その人間は 心が愚鈍な石でできているに違いない。
瞬は、そう思った。

「名は」
「瞬です」
「瞬」
地位にも財にも恵まれすぎるほど恵まれているというのに、生きることを楽しんでいる者のそれとは思えない、抑揚のない声。
冷たい声で瞬の名を繰り返し、それから彼は思いがけないことを瞬に告げてきた。
「俺は、融けることを知らないシベリアの根雪のように静かで表情のない者をと言ったのに、おまえは春のようではないか」
「……」

多分―― 十中八九、褒められたのではない。
彼は、瞬が 彼の希望通りの人間ではないと言っているのだ。
だが、『春のよう』とは。
氷の公爵の口から『春』という言葉が出てくることさえ、瞬には大きな驚きだった。
そう言ったのがシベリア公――氷の城の公爵でなかったら、瞬は声をあげて笑ってしまっていただろう。
公爵は 鹿爪らしい顔で冗談を言っているのだとしか思えない、この場、この展開に。
そして、この人の前でなら油断をして騒ぎ立ててしまう人間もいるかもしれない――と、瞬は思ったである。
もちろん“騒がしく”して この城から追い出されてしまうわけにはいかなかったので、瞬は笑い声をあげるようなことはしなかったが。

融けることを知らない雪のような静けさを求められているのなら、意見も言わずにいた方がいいのだろうと考え、沈黙を守る。
公爵は、値踏みするような目で 瞬を見詰めてきた。
彼は、正しく無表情だった。
不機嫌ですらない、無愛想ですらない、まさに無表情。
無表情の公爵と、彼の強い視線に戸惑う瞬の間に、長い沈黙が横たわる。
息をすることも はばかられるような、徹底した沈黙――。

「黙っていることには耐えられるようだ。まあ、いい。しばらく使ってみる。俺の気に障ることをしたら、すぐさま城からは追い出すが」
公爵が瞬に そう告げた時、おそらく この部屋の外では既に日が暮れてしまっているに違いないと、瞬は思った。
瞬が この部屋に入った時、秋の太陽は まだ中天にあったのだが。
そして、実際に瞬が耐え抜いた沈黙の長さは せいぜい5、6分のものだったのだが。

ともかく瞬は、彼に仕える許可を得ることはできたらしい。
緊張が少し緩み、あからさまに長い溜め息を洩らしそうになって、瞬は慌てて自分に活を入れた。
この女性は誰なのかと訊くこともできず、懸命に沈黙を保っている瞬に、公爵が尋ねてくる。
「これが誰で、なぜ氷よりも冷たい様子をしているのか訊かないのか。いや、まず生きているのかどうかを」
「教えてくださるなら伺います」
「俺の命より大切な人だ」
「はい」
多分そうなのだろうと思っていた。
想定していた通りの答えが返ってきたことで、瞬は むしろ安堵した。
彼女が生きているのか死んでいるのか。
そんなことは公爵の愛の有無、愛の深浅には、どんな影響も及ぼさないのだろう。

自分の命より大切な人が、死んだも同然の姿。
公爵の無表情は、彼女が生き生きと生きていないことへの絶望ゆえ。
公爵の冷たく、それでいて熱い眼差しも、抑揚がなく、それでいて強い声も、彼女への愛ゆえのこと。
自分の命より愛している人に 自分の愛を伝えられず、愛を返してもらうこともできない。
そんな状態で明るく朗らかに振舞っていられる人がいたら、その人は 恐ろしく強い人間である。
公爵は、言ってみれば、普通の人間なのだ。
普通に悲しい人。
瞬は、呪われた氷の公爵を気の毒に思い、少しでも彼の心を慰めることができたなら――と願った。
その願いが天に通じたのか、公爵は瞬を氷の城から追い払うようなことはしなかった。






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