公爵は、毎朝 一輪、凍れる女神に薔薇の花を捧げる。 その花は、彼女の冷気に触れた途端に凍りつき、永遠の命を得る――否、不滅を得る。 公爵は その習慣を何年も怠ったことがないらしい。 にもかかわらず、彼女のいる部屋は薔薇でいっぱいになることはない。 「花は、死の国に流れていっているんだ」 瞬は自身の疑念を言葉にしたわけではなかったが、瞬の疑念を察したらしい公爵が、ある日 瞬に そう教えてくれた。 「彼女は強い冷気に包まれている。安易に近付いたり触れたりはするな。長く彼女の側にいると凍えるし、触れると指が凍傷になる。もっとも俺は、彼女の側にいずきて、俺自身が凍気を帯び始めているようだがな」 公爵は 瞬に そう言ったが、彼が冷たいのは その印象だけで、実際には彼の身体は常に熱かった。 彼の身のまわりの世話をしている瞬には、それがわかった。 瞬は、そして、公爵が生きていることが――そう感じられることが、ひどく嬉しかったのである。 公爵の情熱が、彼女への変わることのない愛ゆえなのだと思うと、ひどく切ない気持ちにもなったが。 公爵が重い病で死にかけた時、自分の命と引き換えに公爵の命を救ってくれと彼女が願い、その願いが聞き届けられて彼女が物言わぬ氷の女神になったことを 瞬が知らされたのは、瞬が氷の城にあがって半年ほどが経った頃のことだった。 シベリアの王と言っていい立場にあり、どんな我儘も横暴も許される立場にあるというのに、沈黙と静寂をしか求めない主人に仕えることに 瞬は慣れ、公爵も瞬を気に入り、自分の側から離すことがなくなっていた。 おかげで瞬は休暇をとって故郷の村に帰ることはできなかったが、公爵が凍れる女神から離れられないように、瞬も公爵から離れてはいけないような気持ちになっていたので、瞬は それを束縛だと感じることはなかった。 時折、瞬を公爵の侍者に推薦してくれた老女に手紙を出し、彼女から 村の様子を知らせる返事を受け取る。 公爵の指示で、古くなり壊れかけていた村の橋が架け替えられたこと、村人たちが共同で使っていた穀物蔵が新しくなったことを、瞬は彼女からの手紙で知った。 その頃には、瞬は、公爵が実は炎のように熱い心の持ち主で、不器用なほど優しい人間であることに気付いていた。 ただ 自分の命より大切な人が不幸なので、公爵自身も自分を幸福にできないでいるだけなのだということに。 「彼女は、本当は春のように暖かく、優しく、朗らかな人だった」 愛に殉じる以前の――生きていた頃の彼女の様子を語る公爵は、その時にだけ、束の間 幸福になる。 「そう。おまえの その瞳のように」 そして、かつての彼女の思い出が美しく 幸福なものであればあるほど、現在の公爵の不幸は深く大きく濃いものになっていくのだった。 公爵が城の中に閉じこもっているのは、彼女を守るため。 彼女から 離れたくないから。 彼女を一人にはできないから。 彼女が生き返らない限り、自分は幸福にはなれないと思っているから。 彼女が生き返らない限り、自分は幸福になってはいけないのだと思っているから。 そして、彼女は、美しい公爵に愛されるにふさわしい美しさを持っている。 公爵は、彼女のことを決して城外に漏らすなと、それだけは厳しく瞬に命じた。 こんなふうに呪われた者が領主の城にいることを知ったなら、迷信深い者たちは何をするか わからない。 悪意を持つことはなくても、不安を感じることはあるかもしれない。 領民たちを不安の中に陥れることは本意ではないと言って。 もちろん、それは嘘ではないだろう。 だが、公爵の“本意”が『自分の愛する人を、事情を知らない 口さがない者たちに あれこれ言われることを避けたい』というところにあることは明白だった。 公爵は、どんな力も持たない無責任で心無い たった一人の人間によってでも、彼女が非難されたり 貶められたりすることが我慢ならない。 自身の隠遁を責められることは構わないが、それを彼女のせいにされ、彼女の存在を否定されることには我慢ならない。 公爵は、彼女の名誉を守りたい。 彼女の名誉に、小さな傷一つもつけたくない。 何があっても、すべてのことから、公爵は彼女を守りたい――のだ。 公爵の行動の是非はともかくとして、彼女を思う公爵の愛の深さ強さは、瞬の胸を打つものだった。 こんなにも深く人を愛せる人が この地上に生きて存在することに、驚嘆をさえ覚える。 どれほど深く愛しても、決して愛を返してもらうことはできないのに――現状ではどんな報いも期待できないのに――それでも公爵は彼女を愛し続けるのだ。 もし彼女が甦り、その愛に愛を返してもらえたなら、公爵はどれほど幸福そうに笑うだろう――と、思う。 だが、瞬は公爵の笑顔を 一度も見たことはなかった。 そして公爵は泣くこともしない。 怒ることも滅多になく、ただ時折 微かな苛立ちを垣間見せることがあるだけ。 感情をどこかに置き忘れてきたように、公爵は無表情で無感動な人間であり続ける。 公爵の感情は、喜びも悲しみも 彼女と共に凍りついているのだ。 だから、この城は氷の城と呼ばれている。 美しい二人。 だが、悲しい二人。 決して笑うことのない公爵は、おそらく 彼女以外の人間の力では幸福にできない。 公爵の青い瞳に出会うたび、瞬の胸は切なく痛んだ。 |