『冥府の王が彼女を解放してくれない限り』 そう公爵は言っていた。 冥府の王は、公爵の命と引き換えに、彼女の命を凍りつかせた。 ならば、冥府の王は、彼女の命と引き換えに、公爵の侍者の命を凍りつかせることで 彼女を解放してはくれないだろうか。 公爵を幸福にするために自分できることは、もはや それしかない。 瞬に涙を流させた決意は、そういう決意だった。 その夜、氷の城が眠りに就いた頃、瞬はひとり、公爵の聖域に向かったのである。 凍れる女神の前で、冥府の王を呼ぶ。 答えが返ってくるのかどうか不安だったのだが、彼はすぐに瞬の前に姿を現わしてくれた。 おそらく、祭壇に横たわる彼女の上に浮かんでいるように見える 彼の姿は幻影で、実体はどこか別のところにあるのだろう。 喪の色の衣服を好む公爵より冷たい目をした、長い黒髪と黒衣で 我が身を覆った若い男。 眼差しだけでなく、その身体も心も冷たいに違いないと思える冥府の王。 長く見詰められていると、身体のみならず 声まで凍りついてしまいそうな気がして――そうなることを恐れて――瞬はすぐに自身の疑念と願いを彼に伝えた。 「僕の命は、この方の命の代わりになりませんか」 「なる」 公爵以上に無駄口が嫌いなのか、冥府の王の答えは ひどく短かった。 その答え自体は期待通りのものだったので、端的にすぎるが迅速極まりない彼の答えを、瞬は歓迎した。 「ならば、僕の命をあなたに捧げます。この方を甦らせてください」 「なぜだ。この女は、そなたにとっては赤の他人だろう。それどころか、そなたは、この女と言葉を交わしたこともない。その人となりも知らない」 「ええ。でも、僕は公爵様に幸せになってほしいんです。そのためには、どうしてもこの人の命が必要なの」 彼女のためではない。 公爵の幸福のため。 つまりは、自分自身の幸福のため。 冥府の王に偽りのない本心を告げながら、瞬は、自身の悲しい利己主義を嘲っていた。 彼女の再生なしには公爵の幸福はあり得ない。 公爵の幸福なしには、自分の幸福があり得ない。 人間の幸福とは、人間の心とは、なぜ ここまで自分以外の誰かの存在なしには存在し得ないのか。 創造神は なぜ、人間をそういうものとして創ったのか。 そして、人が自分一人だけでは生きていられないこと、自分一人だけでは幸福になれないことは、幸福なことなのか不幸なことなのか。 瞬には その答えはわからなかったが、現に そういうものとして人間は存在しているのだ。 その運命は受け入れなければならない――その運命から逃げることはできない。 「できぬことではない。そなたの命も美しい。そう、余は そなたの命も欲しい――そなたの命が欲しい」 美しい命とはどういうものなのか。 命の美醜の判断基準など瞬は知らなかったが、どうやら冥府の王は瞬の命を気に入ってくれているらしい。 ならば さっさと欲しいものを その手にすればいいだけのことなのに――冥府の王は、なぜか瞬の決意を覆そうとし始めた。 「だが、そんなことになったら――それでどうなるかを よくよく考えてみよ。あの男は、そなたの犠牲に感謝することはあるかもしれないが、すぐにそなたの犠牲を忘れ、幸せになるだろう。そなたは、あの男を愛しているから、そんなことを言い出したのだろう? あの男は そなたを忘れ、そなたでない者と幸福になるのだぞ。それでいいのか?」 そんなことは わかっている。 言われなくても わかっていることを告げてくる冥府の王の残酷に、瞬の胸は締めつけられた。 わかっている。 わかっているのだ、そんなことは。 「公爵様が幸せでないと、僕は幸せになれない。僕は幸せになりたい。それだけなの。この人を甦らせて」 「わからぬ奴だ。これだから人間というものは扱いにくい……!」 瞬の決意の変わらぬことを見てとった冥府の王が、忌々しげに眉を歪める。 それから彼は、つい先刻 彼自身が告げた言葉を撤回した。 「余は、そなたの命では、この女を甦らせることはできぬ」 「え? だって、さっき できると――」 「そなたが あの男を愛していなければ、そうすることができた。この女の命をこの女の身体に戻し、そなたの命は余のもの。そなたが あの男を愛してさえいなければ」 「な……なぜ !? なぜ僕が公爵様を愛していちゃ だめなの !? 」 彼女を甦らせることができなければ、自分は一生 公爵の不幸を悲しみ続けなければならなくなる。 その悲しみには耐えることができたとしても、公爵自身が救われない。 瞬の必死の訴えに、冥府の王は、端正なその貌を いよいよ忌々しげに歪ませた。 そして、吐き出すように言う。 「呪いを解くのは、真実の愛と相場が決まっている。そなたは それを既に余に示してみせた。この上 そなたの命を得ることは、余には許されていない」 「真実の愛……?」 真実の愛。 それは こんなにも自分勝手な思いのことを言うのだろうか。 瞬が冥府の王の言葉に驚き 瞳を見開くと、冥府の王は心底から嫌そうに 顎をしゃくった。 「なぜ人間は、自分の幸福だけを考えないのだ。自身の命や自身の幸福を、なぜ他人のために放棄しようと考える。まったく正気の沙汰ではない」 言いながら、冥府の王は、瞬に一輪の花を差し出した。 それは、大輪の薔薇とは比べものにならない、 ひどく小さな花。 雪が融け始めた春の野で最初に見付かる白い花だった。 「この花を その女の胸に置くがいい。再生の花だ。この女の胸に溶け込み、この女は甦るだろう」 「あ……ありがとう! ありがとうございます……!」 これで公爵の笑顔を見ることができる。 嬉しさのあまり 喜びに瞳を輝かせた瞬に ますます不機嫌の色を濃くして、冥府の王は瞬を睨みつけた。 「礼など言うな、この愚か者」 「はい。ごめんなさい。ありがとう!」 「だから、礼など言うなと言ったであろう……! 人の命は、誰の命も、いずれは余のものになるのだ!」 瞬の喜ぶ様が よほど気に障ったのか、冥府の王は そんな捨て台詞を残して、公爵の聖域から ふっと姿を消してしまった。 「でも、ありがとう……」 冥府の王の姿が消えた祭壇の前で、これから自分が手に入れる幸福の切なさを思い、瞬は冥府の王に与えられた再生の花に涙の粒を落としたのだった。 |