「そんな馬鹿げた話を信じろというのか」
不快げな顔つきで、気を取り直して開口一番に、氷河はそう言った。
そして、彼が不快な顔をしている訳を一気にまくしたてる。
「瞬ならわかるぞ、瞬なら! 瞬なら そんなメルヘンな出来事に遭遇しても納得できる。しかし、なぜ貴様の上に そんなメルヘンな出来事が起きるんだ。清らかでもなければ、夢見がちなわけでもなく、食うことと寝ることと遊ぶことしか考えていない貴様が、魔法使いのおじいさんと遭遇だと!」
氷河の憤りは、つまり、到底 現実的とは言い難い星矢の経験そのものではなく、そんな経験をした人間が星矢であること――に向けられているようだった。
そんなことを言われても、星矢としては、『文句は あのじーちゃんに言ってくれ』としか答えようがなかったが。

「そりゃ、俺は清らかでもなければ、おとぎ話を信じてる純真な子供でもないけどさ、でも、それでいったら メルヘンも神話も似たようなもんじゃん。アテナを信じてる俺の前に、魔法使いのオジイサンが現われたって、さほど不思議なことじゃないだろ。まあ、俺はてっきり白昼夢だと思ってたんだけどさ。あれこれ考えるのも面倒だったから」
面倒そうなことは、夢の中の出来事にして忘れてしまう。
それは、何よりも直截簡明を愛する星矢らしい対応だった。
が、現実というものは、星矢が願う通りには存在しないものなのである。

「星矢にメルヘンが似合うかどうかは さておくとして、それなら辻褄が合うな。星矢に近付くことができるのは強い敵だけ。弱い敵は側に近付けない。そして、味方も近寄れない。単純明快、理路整然だ」
「そんなあ〜!」
紫龍の簡明な解説に、星矢は ラウンジ中に 情けない声を響かせることになった。
そんな星矢に、瞬が、メルヘンと植物学の見地から 一つの推論を提示してくる。

「そのおじいさんって、神とかじゃなく、ニンフ、妖精の類――金木犀の木の精だったんじゃないかな。金木犀って、自分に近付く虫を選り好みするんだよ。蝶々とかは金木犀には近付けないの。金木犀の花の香りには、蝶々の嫌いな匂いの成分があるんだって。確実に花粉を運んでくれる一部の花虻だけが金木犀の花に近付けるんだって聞いたことがある。もっとも、日本には雄株しか入ってきていないから、せっかく花粉を運んでもらっても、金木犀の実が成ることはないそうだけど。金木犀の木の精なら、そういう力を持っているかもしれないよ」
『金木犀の木の精』などという言葉が ごく自然に出てくるあたり、さすがはメルヘンを信じる瞬というべきか。
だが、もし瞬の推察が正しくて、あの老人の正体が金木犀の木の精なるメルヘンチックなものだったとしても、問題は何ひとつ解決しないのである。

「その金木犀の木の精って奴が、俺に何の恨みがあって、こんなことするんだよ!」
「それは……『花なんか何の役にも立たない』って言われて傷付いた……のかな。環境の問題とはいえ、植物にとって実を結べないのって大きな問題だよ。植物って、結実のために花を咲かせるんだもの。でも、日本にある雄株だけでは、それは無理な話で――事実だから、悲しくて黙っていられなかったのかも……」
話しているうちに、それまで意識したこともなかった金木犀の不遇が 身につまされてきたのか、瞬はすっかり同情モードである。
星矢としては、金木犀に同情している暇があったら、仲間の危機をどうにかしてほしいというのが本音だったのだが。

「一生 もてずに過ごすじーさんのことは 心から気の毒だと思うけど、それより この状況をどうにかしてくれよ! おまえが俺の側に近寄れなくなったら、誰が俺の とっ散らかすゴミを片付けてくれるんだよ。きっと、俺、毎日 辰巳に怒鳴られて、メイドたちには嫌な顔されて いじめられるようになるぞ! 99.99パーセント確実だ。絶対」
「僕は星矢のお掃除係なの」
金木犀の不遇は彼に責任のあることではないが、星矢のそれは自業自得である。
星矢は、自分が出したゴミを自分で拾えば、彼が懸念している事態を回避することができる。
瞬は、非難のつもりで そう反問したのだが、星矢は全く悪びれた様子を見せなかった。
それどころか、側に瞬がいないことによって生じる自身の不利益を、星矢は更に言い募った。

「それだけじゃねーぞ。怪我した時、すぐにバンソーコ出してくれるのも おまえだし、一緒にサッカーしてくれるのも おまえだけだ。それに、ここんちのメイドって、おまえ贔屓ばっかじゃん。お菓子の貰い物とか、まず おまえのとこに持ってくる。俺、そのおこぼれも貰えなくなるじゃないか!」
「……」
絆創膏にサッカーに お菓子。
星矢にとっての自分の存在価値に、瞬が疑念を抱くことになったのは 当然のことだった。
だが、星矢には それは極めて重大な問題だったらしい。
星矢は、彼にしては情けない声と顔で 必死に訴え続けた。
「俺、おまえと遊んでるのが いちばん楽しいんだよ。氷河は そもそも付き合ってくれねーし、紫龍はやたらめったらルールに厳しくて、ちっとも遊んでるって気がしねーし」
「瞬と遊んでいるのが いちばん楽しいとは それが聖闘士の言い草か」
見兼ねた氷河が星矢を叱責したが、星矢は それのどこが悪いのか、まるで理解できていないような顔を見せるだけ。
星矢に悪気のないことが わかっているだけに、瞬は、星矢の実利主義を責め続けることはできなかった。

「その金木犀の木の精のおじいさんを掴まえて、元に戻してくださいって、お願いするしかないんじゃないかな。心を込めて謝れば、きっと許してくれるよ」
「謝って、お願いー?」
本音を言えば、それだけのことで事態が解決するとは、星矢には思えなかった。
瞬は、自分がそうだから 他人も同じだと思うのであって、『謝って済むなら、警察はいらない』が、世間の常識なのである。
とはいえ、他にできることもない。
星矢は、駄目で元々、藁にもすがる思いで瞬の提案をれ、問題の木の下に行き、腰を低くして金木犀の木の精に お出ましを願ったのだが、ほとんど花の落ちた金木犀は完全黙秘を決め込んだのか、悩める星矢の前に姿を現わすこともしてくれなかった。


こうなると、お手上げ状態、打つ手なし。
星矢に近付けるのは強い敵だけ。
味方も近寄れないが、敵でも味方でもない者も近付けない。
要するに、星矢は その日から 人類の99.99パーセントに避けられる人間になってしまったのだった。






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