Live or Live






兄には もう頼めない。
それは、瞬にもわかっていた。
事あるごとに泣いて ぐずり、幼い頃から彼の足手まといでしかなかった不甲斐ない弟。
もしかしたら もっと楽で喜びに満ちたものになり得たかもしれない兄の人生を 苦難に満ちたものにしたのは、彼の弟である。
あげく、不出来な弟は、弟を守るためだけに生き続けていたような兄に、彼の弟の命を絶つことを求め、彼を苦しめた。

『よく言った。それでこそ、この一輝の弟』
と力強く断言し――その実、呻吟して――弟の望みを叶えようとし、結局そうすることができず その拳から血を流した悲しい兄に、もう一度 同じ望みを望むことができるだろうか。
同じ苦しみを、二度、彼に味わわせることができるだろうか。
できるわけがない。
それは、瞬にもわかっていた。
これ以上 兄に苦しみを強いたくないという瞬の心を、アテナも知っていただろう。

だが。
だからといって、鳳凰座の聖闘士の代わりに それを氷河に命じるアテナの意図が、瞬にはわからなかったのである。
アンドロメダ座の聖闘士の命を絶つ者が、兄でないのなら氷河であればいい。
そう望む瞬の心までを、彼女が知っているはずはなかったから。
それとも――彼女は 以前から気付いていたのだろうか。
自分は、そうと気取られるようなことを 彼女の前でしてしまっていただろうか。
困惑しながら、玉座に着いているアテナの顔を見上げた瞬を、彼の女神は つらそうな眼差しで見下ろしてきた。
「ハーデスを 完全に消滅させてしまえばよかったのだけど……私は なぜか そうすることができなかったの」

二百数十年ごとに、聖域と その聖域を統べる女神アテナに降りかかる聖戦という試練。
その試練を乗り越えたばかりの現在の聖域は満身創痍の状態だった。
ある宮は壮麗に、ある宮は威厳をたたえて――アテナの理想と意思を守ってきた十二の宮は、今では そのほとんどが見る影もなく崩れ落ちている。
その宮を守護していた黄金聖闘士たちも、今はここにはいない。
かろうじて このアテナ神殿だけが唯一 以前の姿を保っているというありさま。
聖戦を生き延びたアテナの聖闘士とアテナは、これから聖域の復興に努めなければならない。
崩れた建物、失われた人材、何より 平和の空気を、彼等はこれから 再びこの場所に築き養っていかなければならないのだ。
それは神話の時代から繰り返されてきた営みで、聖域は その繰り返しによって 正義と平和を象徴する場所としての歴史を積み重ねてきた。
かつてのアテナの聖闘士たちが成し遂げてきたことを、自分たちもまた 粛々と行なうだけ。
聖戦を生き延びたアテナの聖闘士たちの中には、その覚悟も決意もできていた。

ただ、当代の聖戦は、これまでの聖戦とは異なる形の終結を見た。
そうせざるを得なかったとはいえ、実際に そうしてしまった自分に、アテナは苦しんでいる。
彼女のために――彼女が為すべきこと、彼女にできることをしたにすぎないアテナのために――瞬は微笑を作った。
「ハーデスを庇うわけではありませんが、彼は僕たちと価値観が違うだけで、邪神ではありませんでしたから。邪神というなら、タナトスの方がよほど傲慢で残虐で邪まな神だった」
アンドロメダ座の聖闘士が 彼の女神の心を慰めようとしていることに、アテナは気付いたのだろう。
彼女は――彼女もまた、つらそうだった表情を、無理に作った微笑の中に隠し去った。
これまでの聖戦では、ヒュプノス、タナトスの二柱の神を完全に消滅させることはできなかった。
それができただけでも、当代の聖戦は大きな成果をあげたのだ。

「私は、あなたにハーデスの魂を鎮めてほしかったのかもしれないわ。いいえ、わからせてほしかったのかもしれない。この地上で生きている人間たちの愛、思い遣り、優しさ、強さ――彼が忌み嫌った人間の価値を。だから、私は、あなたの中にハーデスを封印した――」
「他に容器がなかったんですから、それは適切な処置だったと思いますが」
「そうね……他に器がなかった……。ならば、彼を封印する器を不要にすればよかったのに――ハーデスを完全に消滅させてしまえばよかったのに……」
アテナがそうしなかった――できなかったのは、彼女が希望を持っていたからである。
神話の時代から聖戦を繰り返してきたハーデスに、人間と人間が生きる地上世界には存在する価値があるという考えに賛同してもらいたい。
ハーデスに人間が存在することの意味と価値を認めさせることは、決して不可能なことではない。
それが現実のものとなった時、真の意味で聖戦は終わるのだ。
そういう希望を。
“希望”はアテナの聖闘士たちの最も親しい友。
瞬は、彼女を責める気にはなれなかった。

「本当に甘いわね。私も」
「僕と同じですね。でも、甘いの、僕、好きなんです」
「けれど、甘すぎるのも問題よ。誰かに甘い態度をとることは、別の誰かに苦いものを強いることになりかねない……」
そう言って、アテナは、その“苦いもの”を強いられることになる人間に向き直った。
「一輝には もう無理だと思うの。彼は、既に一度 瞬の命を奪い損ねている。でも、氷河、あなたならできるわね」
「……」

『あなたならできる』と、何を根拠にアテナは言うのか。
なぜ そんなことを、アテナは瞬の仲間に命じることができるのか。
『もし瞬の中に封印されているハーデスが その封印を解き、再び この地上に害を為すことがあったなら、その時には 瞬の命を絶ち、今度こそ完全にハーデスを消滅させるように』と、瞬を恋する男に、なぜ 彼女は。
アテナの一方的な命令に、氷河は憤っていた。


「あなたもご存じでしょう。俺はクールとは程遠い男で、とてもそんなことは――」
「では、私は、その特別な仕事を、星矢か紫龍に命じなければならなくなるわ」
「……」
アテナは卑劣だと、氷河は思った。
彼女はなぜ、その特別な仕事を、彼女自身の手で為そうとはしないのか。
アテナの手にかかるのであれば、それは瞬には本望、瞬の兄とて 得心する――得心せざるを得ないだろう。
にもかかわらず、彼女は、あくまで それを人間に・・・やらせようとする。

それはアテナが為すべきことだと、もう一度 氷河は思った。
だが、同時に彼は、そんなことは決してあってはならないことだとも思ったのである。
そんなことは 自分には我慢ならないと。
アテナが、瞬の命を絶つ。
それは、瞬には本望で、喜ばしいことなのかもしれない。
瞬の兄も、彼の弟の命の炎を消す者が 他の誰でもないアテナなのであれば、それで諦めがつき、納得できるのかもしれない。
だが、白鳥座の聖闘士は納得しない。
瞬の命を絶つ者が、アテナでも、一輝でも、星矢でも、紫龍でも、白鳥座の聖闘士は納得できはしないのだ。

口の中に苦いものが湧いてくる。
氷河は、アテナの命令を受け入れるしかなかった。
その“特別な仕事”を、彼は他の誰かに任せるわけにはいかなかったから――その“特別な仕事”を自分以外の誰かに任せたくはなかったから。
「わかりました」
低く苦渋に満ちた声で、アテナに承知の意を告げる。
そんな氷河を――つらい仕事を命じられた仲間を、命じられた氷河より つらそうな目をして、瞬が見上げ見詰めてきた。
「ごめんね、氷河。ひどいことを頼んでるって、わかってる。でも、僕は、僕がこの世界の滅亡の片棒を担ぐなんて、そんなことは耐えられない。だから、その時には……お願い。僕を――」

誰よりも清らかな心を持つがゆえに、地上世界と そこに生きるすべての人間の命と試練を その身に引き受けることになってしまった瞬には、何の罪もない。
今 ここで瞬に泣かれてしまったら、自分はどうすれはいいのか――。
頼むから泣かないでくれという、氷河の胸中の叫びを聞きつけたらしいアテナが――もちろん、彼女自身も 瞬の涙を見たくはなかっただろう――すっかり悲観的になっている二人のアテナの聖闘士の間に、明るい声を割り込ませてきた。
「そう悲観することはないわ。弱い人間は流され、汚れるもの。地上で最も清らかな魂を持っているということは、地上で最も強い人間だということでもある。瞬は強い心の持ち主ですもの。瞬の意思を捻じ伏せ 私の封印を破ることは、ハーデスにも そう簡単にできることではないわ。その時がこないということも大いに あり得る。ハーデスが私の封印を破り、再び瞬の身体を支配するようになる可能性なんて、1パーセントあるかないかのものよ。まず その時はこない」

アテナのその言葉が その場しのぎの安直な発言だとも、楽観的にすぎる無責任な慰めだとも思わない。
彼女は 本心からそう思っているのだろう。
アテナの力と アンドロメダ座の聖闘士の意思によって抑え込まれているハーデスが、その力を破る可能性は99パーセントない――と。
だが、その可能性が1パーセントでも残っているのなら――99パーセントの不可能と99パーセントの可能は 大差のない事態なのだ。
1パーセントにも満たない可能性に賭けて戦い、奇跡を起こし続けてきたのが アテナの聖闘士である。
氷河は、1パーセントという可能性が どれほど大きな可能性であるのかを、身をもって知っていた。






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