アテナ神殿を出ると、そこから見えるのは、屋根や柱だけでなく 守護する主を失ったせいで生気が感じられなくなった十二の宮だった。
「やっぱり、俺が代わってやろうか?」
仲間に そう尋ねてくる星矢が 珍しく深刻な目をしているのは、彼の眼下に広がる聖域の惨憺たるありさまのせいではなかっただろう。
壊れてしまったのなら もう一度作ればいいと朗らかに考えるのが、天馬座の聖闘士なのだ。
星矢は、“特別に つらい仕事”をアテナに命じられた仲間の心を気遣っている。

「いや」
星矢の気遣いを迷惑と思ったわけではなかったが――むしろ、それは有難いことだったのだが――氷河は さほどの迷いもなく、星矢に首を横に振ってみせた。
その特別な仕事を、自分以外の人間に任せることはできない。
「でも、おまえは瞬が――」
言いかけた言葉を星矢が途中で途切らせたのは、その事実を言葉にしてしまうのは残酷なことだと思ったからだったのか、あるいは、それは自分が言っていいことではないと考えたからだったのか――。
ともかく星矢は、言いかけた言葉を 気まずそうな顔で途切らせた。
紫龍が その後を引き受け、別の話題を提供してくる。

「しかし、なぜ沙織さんは その役目を氷河一人に任せようとするんだろうな。俺たちが皆で 瞬を見守っていればいいだけのことなのに。アテナに命じられなくても、俺たちはそうするのだろう」
紫龍は、アテナが 龍座の聖闘士や天馬座の聖闘士ではなく白鳥座の聖闘士に そのつらい役目を負わせた訳を知っている。
少なくとも、察してはいる。
だから、氷河は、彼にジョークで答えた。
「それはまあ……俺たちは 揃いも揃って、控えめで謙譲の美徳に恵まれた人間だからな。責任者を決めずにいて、いざという時に 譲り合いの精神を発揮し、為すべきことを為せなかったら まずいことになると考えたんだろう、沙織さんは」
「そのジョーク、ちっとも笑えねーぞ、氷河」
星矢が、その言葉通りに笑わずに、むしろ不愉快が極まったような顔を氷河に向けてくる。
氷河も、自分のジョークに星矢が及第点をくれるなどとは思っていなかった。

「それは悪かった」
ジョークを言った彼自身 笑わずに星矢に謝罪して、氷河は、無理難題を押しつけられた仲間を つらそうな目で見詰めている瞬に向き直った。
「そんな申し訳なさそうな顔をするな。俺は、アテナの命令に憤っているが、喜んでもいる。これは、アテナ――いや、沙織さんの気遣いなのかもしれない」
「喜んで……?」
不思議そうな目をして、瞬は、氷河が口にした言葉を繰り返した。
氷河が頷くと、こんな面倒で残酷な仕事の責任を押しつけられたことを喜んでいると告げる男を見上げる瞬の瞳は、少しずつ その色を変化していった。
それまでは ただ不思議そうなだけだった その瞳に、もしかしたらと戸惑い、期待し、だが うぬぼれてはならないと自分に言い聞かせ、自制しているような輝きが混じり始める。

瞬が白鳥座の聖闘士の気持ちに全く気付かずにいたはずはない。
瞬はそこまで鈍感ではない。
それは沙織や紫龍どころか星矢までが気付いていたこと。
それゆえ、アテナは、特別の仕事の執行者に氷河を選び、紫龍や星矢たちは 氷河が選ばれたことを、実は唐突なことだとは思っていないのだ。

「ハーデスとの戦いが終わったら、俺は おまえに好きだと言うつもりだったんだ。だが、その必要がなくなった。アテナの粋な計らいのおかげで、俺は 死ぬまで おまえの側にいられることになったから」
本当は、瞬と二人きりでいる時に言おうと思っていた言葉。
だが、事態がこうなってしまった今、それは仲間たちの前で言うべきことのような気がして、氷河は それを星矢たちのいる場所で瞬に告げた。

瞬が その瞳を見開く。
瞬は やはり気付いていたのだろう。
アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士の間にあるものが、友情とは別の、特別な何かだということに。
1パーセントの可能性を恐れながら、二人が過ごすことになるのだろう これからの長い時間。
もし その時がきたら、一方は 命を奪う者に、もう一方は 命を奪われる者にならなければならない。
アテナの命令を待つまでもなく いつかは結びつくはずだった二人を、アテナは彼女にしかできない方法で、予定より早く結びつけたのだ。
あるいは彼女は、己が身に危険な時限爆弾を抱え込んでしまった瞬が、そのせいで瞬が氷河から遠ざかろうとする事態を懸念したのかもしれない。
逃げる必要も恐れる必要もないと瞬を諭すために、彼女は氷河に瞬の側にいることを命じたのかもしれなかった。

彼女の命令がなかったら、氷河に自分という重荷を背負わせるわけにはいかないと考えて、瞬は、
「氷河、ずっと僕の側にいてくれる?」
と氷河に尋ねることはできなかったかもしれない。
だが、アテナの計らいによって、瞬は氷河に そう尋ねることができ、
「ああ」
氷河もまた、瞬に頷き返すことができたのである。

アテナの命令によって 瞬の側にいる権利を得、その権利の行使を瞬に許してもらうことができた氷河は、星矢と紫龍がその場にいることなど気にせずに、有頂天になって 瞬を抱きしめてしまっていたかもしれなかった。
白鳥座の聖闘士は、万一の時 瞬の命を奪う者として 瞬に結びつけられたのだという事実さえなかったら。
あまりに大きすぎる喜びと、あまりに大きすぎる不安が 氷河と瞬の間にはあったので――二人は仲間たちの前で静かに その約束を交わしたのである。






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