互いが互いの側にいるという約束を 氷河と交わした時には、それが――氷河が側にいることが――自分の力になり、支えになってくれるだろうと、瞬は思っていたのである。
特別な・・・愛情、思い遣り、優しい気持ち、慈しみ、自分を見守っていてくれる人が いつも自分の側にいること――それらのことが、生きること耐えることを つらくするものであるはずがないと。

実際そうだったのである。
常に氷河の眼差しを感じていられる毎日は、ハーデスの魂を我が身に封じているという事実をさえ、瞬に 素晴らしい幸運のように感じさせるものだった。
氷河の側にいることは、不安より、安らぎや充足感、ときめきといったものを、瞬の許に運んできた。
――二人の約束が結ばれた当初は。
しかし、好きな人が常に自分を見詰めていてくれるという幸福が もたらすものは、それだけではなかったのだ。
それは1パーセントの可能性という大きな不安を抱えた者の力にもなるが、障害にもなる。
二人が その事実に気付いたのは、二人の約束が交わされた日から、僅か1週間後のことだった。


その日、世界と聖域の上にある空は、切ない気持ちになるほど晴れ渡っていた。
冥界では決して見ることのできなかった水色の空、澄んだ光。
星矢と紫龍は、アテナに従って、十二宮再建用の大理石を確保するため 聖域の外の石切り場に出掛けていて、氷河と瞬は留守居役。
空が晴れ 明るい分、風が冷たい。
だから二人は、互いに寄り添い合った。
触れ合えるほど近くに。
二人は、それだけで不思議に温かいものを それぞれの心と身体に感じることができた。
寄り添い合うだけで これほど温かくなれるのなら、触れ合ったら、もっと温かいだろうと思い、そうした。
見詰め合う瞳が熱を帯び、氷河の唇が瞬の唇に触れる。
そうしてから、氷河は、瞬の肩に置いていた腕を瞬の背にまわし、瞬の身体を自分の胸の中へと引き寄せた。

春先に自分の気に入りの花を見付けた蝶が その花の上に舞い下り戯れているようだった氷河の唇が、急に蛇の姿に変えたように瞬の唇と舌に絡みつき、その中に忍び込んでこようとする。
優しい蝶も 美しい蛇も、瞬には等しく魅惑的な誘惑者だった。
誘惑者は、二人がもっと近付けば 二人はもっと素晴らしいものを手に入れることができると、声なき声で瞬に囁きかけてくる。
その囁きに耳を傾けているうちに、瞬の身体は軽くなり、重心がどこにあるのか わからなくなり――それだけなら まだしも、瞬は自身の五感がもたらすものに夢中になるあまり、自分の意識を手放してしまったのである。
一瞬だけ。
瞬は、すぐに我にかえった。
「あ……僕、今……」
「瞬?」
氷河が、怪訝そうな声で、彼が生殺与奪の権を握っている彼の恋人の名を呼ぶ。
その優しく熱っぽい瞳に出会った瞬間、瞬は背筋が凍りついた。

氷河が ハーデスよりも危険な何かに感じられ、瞬は 氷河の胸を突きとばすようにして、我が身に まとわりついている誘惑の熱を振り払ったのである。
「瞬? どうしたんだ?」
氷河が何か言っていたが、その声を聞くことさえ危険だと、瞬の直感が瞬に警鐘を鳴らしてくる。
瞬は、二度 大きく首を左右に振り、そして そのまま氷河の前から逃げ出した――。


恋が障害になることに 瞬が気付いたのは その時だった。
ハーデスに覚醒の機会を与えないために、常に――眠っている時にさえ――自分の心身を厳しく律していなけれればならないアンドロメダ座の聖闘士が、氷河と触れ合っていると、彼が側にいてくれれば他のすべてのことがどうなってもいいような気持ちになる。
自分の意思と心が消えて、身体ごと氷河の熱の中に溶けていってしまいそうになる。
自分は自分のものだという強い意思だけが、ハーデスに抗する瞬の唯一の武器だというのに、氷河は いともたやすく瞬から その武器を取り上げ、霞のように力ないものに変えてしまう――。

瞬は ぞっとしたのである。
恋というものは、恋する人の幸福を願う強い心、恋する人の生きている世界を守りたいという強い願いで作られるものだと、瞬はそれまで信じていた。
恋が自分を強くすることはあっても、弱くすることなど――自分から力を奪うことなどないと思っていた。
だというのに――だというのに、事実はそうではなかったのだ。
意思や心を弱くするどころではない。
恋は、瞬の中から瞬の意思や心の存在を消し去ってしまう。
氷河が側にいてくれるなら 他のすべてはどうなってしまってもいいなどという恐ろしい思いを、瞬の中に生む。

それはあってはならないこと。
それは、我が身の内に 地上世界の滅亡を望む者の魂を抱えた者が、考えても、思っても、感じてもならないことである。
だから――たとえ 一瞬間だけのこととはいえ、そういう思いを抱いてしまった自分と、そういう思いを恋人の中に生じせしめた氷河の熱に戦慄して、瞬は、その日その時から 氷河を恐れ避けるようになったのだった。
「僕の命を奪う権利を持った人が 僕の側にいるのが恐いの」
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間であり、もちろん その愛と信頼を誰よりも信じている人に、そんな こじつけめいた嘘まで言って、瞬は氷河を避け続けたのである。
それは嘘――心にもない嘘だったが、氷河を『恐い』と感じる瞬の心は真実のものだった。






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