氷河は、瞬が自分を避け、自分から逃げようとすることを、初めての恋に逢遇した幼い恋人の可愛らしい怯えや戸惑いの類だと思っていた。 それゆえ、最初のうちは苦笑しながら瞬を あやし説得するべく努めていた。 だが、やがて 瞬の逃避が 初恋への戸惑いなどという可愛いものではなく 厳しいほどの拒絶だと悟るに至った氷河は、瞬が大人になってくれる安閑と待っていることができなくなってしまったのである。 当初は 自分から逃げ避けている瞬を微笑して見詰めていた氷河が、険しい顔をして瞬を掴まえたのは、瞬が氷河を避け始めてから数日後。 瞬が大人になるのを待っていればいいことなら、氷河は いつまでも待つつもりだった。 が、基本的に人当りのいい瞬が他者に対して これほどの峻拒を示すのは、瞬がそうすることを自分の義務だと考えている場合に限られる。 待っているだけでは解決しない何かが、今の瞬の中にはあるのだ。 氷河にはそうとしか考えられなかった。 「瞬。俺は おまえの側にいる権利を手に入れられると信じたから、こんな役目を引き受けたんだ。俺から逃げないでくれ。おまえが、まさか俺を本当に恐がっているわけではないんだろう」 アンドロメダ座の聖闘士が白鳥座の聖闘士を恐れる理由など、実は一つもないはずだった。 瞬の命を奪う権利をアテナに与えられた者としても、恋の相手としても。 1パーセントの可能性が現実のものになったとしても、瞬が白鳥座の聖闘士に殺されることに協力してくれなければ――瞬が『死にたくない』と考え、白鳥座の聖闘士に抵抗してくれば――自分に瞬の命を奪うことができるとは 氷河は思っていなかったし、恋の相手としてなら なおさら、白鳥座の聖闘士は瞬の言いなりになるしかない。 生殺に関しても、恋に関しても、二人がどういうものであるのかを決定するのは 瞬の意思だけ。 それは瞬にもわかっているはずである。 にもかかわらず、瞬は言うのだ。 「恐いよ……! 僕は――僕は、本当に氷河が恐い……!」 と、瞬に恋い焦がれている男を 心から恐れているように怯えた目をして。 氷河は 訳がわからなかった。 「瞬。おまえが俺を恐れる理由がどこにある。俺は、おまえの望むことしかしない。おまえが『殺すな』と言えば殺さない。おまえが『触れるな』と言えば触れない。俺はただ、おまえの側にいたいだけなんだ。そして、俺以外の誰にも おまえを渡したくないだけだ」 「氷河……」 『触れるな』と言えば触れない――。 その言葉を、氷河が本気で言っているらしいことが、瞬の心を傷付けた。 剥き出しになった神経を その手で掴みあげられたような痛みに、瞬は襲われた。 そう言うことができたら 悩まないし、苦しまないし、恐れもしない。 そう言えない自分に気付いてしまったから、瞬は、氷河を ハーデスよりも恐ろしいものだと感じるようになったのだ。 「氷河……その役目を他の人に譲って。僕、万一の時には、ちゃんと その人に殺されるから。そして、氷河は僕の側にいるのをやめて。僕……僕は、氷河の側にいるのが恐い――恐いの。氷河が側にいたら、僕は氷河に『僕に触れて』って言わずにいられなくなる。そして、そうなったら僕は――僕の心は氷河に消されてしまう。僕は僕の意思を保っていられなくなる。あっちゃいけないことだよ。僕が――氷河に抱きしめられて、うっとりして、それで何もかもがどうでもいいような気持ちになってしまうなんてことは。その隙を衝かれて、ハーデスの復活を許すなんてことは。僕はアテナの聖闘士なのに、ハーデスの魂を閉じ込めている箱なのに、『好きな人に抱きしめられて、つい 箱の蓋を開けてしまいました』なんて、誰に どんな顔して言えるっていうの。そんなことになったら、僕は誰に謝ればいいの。この世界に生きている すべての人が、僕を軽蔑しながら死んでいくんだ。そんなことになったら、僕は――」 一人の人間の 本当に馬鹿げている。 この世界に生きている すべての人がそう思うだろう。 恋が どれほどの力を持つものか、その力の強大さを知っている者以外のすべての人間が。 「瞬……」 幸か不幸か、瞬が恋した人は、その力の強大さを知っている人間だった。 氷河は、瞬の懸念――むしろ 恐れ――を笑い飛ばすようなことはしなかった。 そうする代わりに、彼は瞬に その手で瞬の頬に触れ、そうしてから 氷河は、瞬の身体を抱きしめた。 この腕と胸の温かさから逃げなければならないと思うのに、瞬には そうすることができない。 そのせいで、瞬は、氷河に抱きしめられたまま、 「もし、そんなことになったら、俺が必ず おまえを殺してやるから」 という、氷河の苦しい呻きを聞くことになってしまったのである。 「氷河……」 「そして、俺も死ぬから」 「――」 氷河の唇が、瞬の髪に押し当てられてくる。 氷河の その言葉を聞いた瞬の心と身体は、一度 大きく震え、そして強張り凍りついた。 氷河に そんなことはさせられないと思う。 たとえアンドロメダ座の聖闘士が、地上の平和を守るためにハーデス共々 この地上から消え失せることになっても、氷河は彼の生を生き続け、失ったものとは別の幸福と愛を見付けるべきなのだ。 もちろん、瞬はそう思っていた。 だが――。 『もし、そんなことになったら、俺が必ず おまえを殺してやるから』 『そして、俺も死ぬから』 絶対にあってはならないことだと思うのに、そう告げる氷河の声の持つ熱や真摯な思いが、瞬を陶然とさせる。 凍りついていた瞬の心と身体は、あっというまに融け始めた。 目を開けていることができなくなり、目を閉じる。 自分の足で立っていることができなくなり、倒れてしまわないために、瞬は両の手で氷河の背にしがみついた。 氷河の腕が、まるで二人の身体を一つにしようとしているかのように強く瞬の身体を抱きしめ支えていたので、瞬は実は そんなことをする必要はなかったのだが。 互いの心臓の鼓動を じかに感じられるほどに、自分の感じている温もりが 自分のものなのか 自分を抱きしめている人のものなのか わからないほどに――二人の人間が側近くにいることが、なぜ これほど心地よいのか。 深い眠りの中に引き込まれていく あの瞬間が いつまでも終わらないような不思議な感覚に、瞬の心と身体は囚われ支配されていた。 そんなふうに 自分の意思をほぼ手放しかけていた瞬に覚醒を促したのは、ふいに、そして 瞬の脳に直接 響いてきた一つの声だった。 『瞬。そなた、自分自身は その男に委ね、この地上世界は 余に委ねてしまうつもりか』 それが本当にハーデスの声だったのか、あるいはハーデスの魂を閉じ込めた箱である人間が 自分の責任感(それとも罪悪感?)で作り出した幻の声だったのかは、瞬にはわからなかった。 ともかく、瞬は その声によって自分の意思を取り戻した――氷河の腕から逃れ出ることができたのだ。 「だめっ!」 何が『だめ』なのか。 誰に対して『だめ』と言ったのか――自分に対してか、氷河に対してか、あるいはハーデスに対してだったのか――それすらも わからぬまま、瞬はその場から逃げ出した。 |