その日以降、氷河は元の氷河に戻ってくれたようだった。
瞬には そう思えた。
何といっても、瞬が『氷河は変わった』と思うに至った あの事象――氷河と視線が合うことがなくなったという、あの事象――が解消されたのだ。
ふと気がついて周囲を見回すと、氷河が自分を見ていることに 必ず気付く。
以前と同じように。
それは瞬にとって、氷河が以前の彼に戻った何よりの証拠だった。
氷河と視線が合うたびに嬉しくて、瞬は、口許がほころぶ自分を止めることができなかったのである。

その後、幾度か敵襲もあったが、氷河は 高速での時のような投げ遣りな戦い方を繰り返すことはなかった。
仲間を――瞬を――庇う素振りは幾度も見せたが、それは決して瞬を戦いから疎外しようとするものではなく、あくまでも より確実で有効な共闘を実現するための行為。
クールでもスマートでもないが、詰まらぬことで命を落とすわけにはいかないという覚悟のある戦い方、何があっても生き延びようという気持ちが感じられる戦い方。
そして、戦いの最中にも、瞬は幾度も、氷河の視線を感じ――仲間の身を気遣う氷河の視線を感じ――瞬は それが嬉しかったのである。
仲間の身を、仲間の命を案じるということは、氷河が命の大切さを知っているということで、氷河は当然 自分の命の重さも自覚してくれているだろう。
そう信じていられることが、瞬は嬉しかった。


「氷河が 以前の氷河に戻ってくれて――生きようとする戦い方をするようになってくれて嬉しい」
木枯らしが吹いていなければ、晴れた冬の日の午後は 存外に気持ちのいいものである。
冬という季節だからこそ、陽光の温かさが価値あるものに感じられる。
だが、その日、氷河に そう告げた瞬の心が弾んでいたのは、二人がいる陽だまりが心地よいものだったからではなく、以前の氷河――生きることに投げ遣りになっていない以前の氷河と一緒にいられることを、瞬が“嬉しい”と感じているからだった。

「おまえに、恰好悪くても生きていろと言われたからな」
「そう。生きていて。氷河に何かあったら、僕が悲しいから」
「ああ。おまえを悲しませたくはない」
冷めた目ではなく、温かい眼差しで そう答えてくれる氷河を見ていられることが、本当に嬉しい。
我知らず微笑してから、あまり笑ってばかりいるのもどうかと思い、瞬は その視線を氷河の上から逸らしたのである。

瞬が視線を逸らした その先には、次の季節の成長に備えて 今はすっかり葉を落としたニシキギの木があった。
毎年 同じ営みを繰り返しながら、年輪の数を増やしながら、より高く より大きく成長していくニシキギの木。
ニシキギが重ねていく年輪は 人間の記憶のようなものである。
おそらく氷河が変わっていた時、氷河は 何かつらいことがあって、彼を生かすために その命をかけた彼の大切な人たちのことを忘れてしまっていたのだろうと、瞬は思ったのである。
だから、あの時、年輪の少ない木のように氷河の心は もろくなっていたのだろうと。
だが、氷河は、忘れていたことを思い出してくれたのだ。
彼が今 生きているのは、彼一人の力によるものではないのだということを。

「瞬」
氷河に名を呼ばれ、彼の方に振り返る。
いつのまにか至近距離にまで近付いていた氷河の青い瞳が すぐそこにあって、瞬は少し慌てた。
この青い瞳の中に、氷河は どれだけの悲しい記憶を静めているのかと思うと、それだけで切なくなる。
だが、その幾つもの記憶こそが、今の氷河を作っているもの。今の氷河を生かしているもの。
氷河の青い瞳の中にいる幾人もの人たちに、瞬は感謝することしかできなかった。
その氷河の瞳が、ふいに瞬の視界から消え去る。

(えっ !? )
なぜ氷河の綺麗で悲しい瞳が 急に見えなくなったのか。
その理由に気付くまでに、瞬は軽く10秒以上の時間を要したのである。
氷河の唇が、瞬の唇に触れていた。
氷河の腕は 瞬の髪と瞬の背中にあって、瞬はいつのまにか氷河に 強く抱きしめられていた。
(あ……)
これはいったいどういうことなのか。
氷河の瞳――氷河の青く綺麗な瞳は どこに消えてしまったのか。
混乱する瞬の首筋に、氷河の左手が下りてくる。
瞬は、氷河のその手で 自分はくびり殺されてしまうのだろうと思った。
実際は そういうことにはならず――次に瞬の喉に触れたものは、氷河の唇が持つ熱の焼けつくような熱さだったが。

「瞬、俺は――」
「や……やだっ」
いったい氷河は何を言い、何をしようとしているのか。
僕はただ、氷河の瞳を見詰めて、氷河の命に感謝したいだけだったのに――。
責めるように胸中で なぜか自分に訴えて、瞬は 氷河の肩と胸を押しやり――氷河は無理に自分の腕の中に瞬を引き留めておこうとはしなかった――氷河の腕から逃れ出たのである。

「――瞬」
その時には もう、氷河は自分のしたことを後悔していた。
氷河との間に距離を置き 氷河の瞳を見た時に、瞬には それがわかった。
だが、だからどうしろというのか――どうすればいいのか。
再び 氷河の瞳――後悔の色を浮かべ 瞬を見詰めている氷河の青い瞳に出会った途端、瞬の心臓が大きく速く波打ち始める。
氷河の切なげな眼差しと 早鐘を打つような自分の心臓の鼓動に混乱し、どうすればいいのかが わからなくなり――結局、瞬はその場から逃げ出したのである。
逃げ込んだ自分の部屋でどれほど落ち着こうとしても 落ち着くことができず、論理的な思考を形作ることもできず――その日 瞬は夕食のためにダイニングに下りていくことができなかった。






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