俺が彼女に最初に会ったのは、俺が9歳の時だ。
俺はシュコーラの3年生。
季節は春だった。

冬には冬の楽しみ方があるが、春は、北国の人間には特別な季節だ。
その訪れが奇跡にも神の祝福にも思える、特別な季節。
明るく暖かい陽光に浮かれ 勉強もせずに外で走り回っていることを、大人たちも大目に見てくれる季節。

あの日、俺は友だちと草すべりをする約束をしていて――学校から帰ってテキストの入った鞄を自分の部屋に放り投げると、またすぐ家を飛び出て、町外れにある丘に向かって駆けていたんだ。
その途中で、俺は綺麗なお姉さんに呼び止められた。
「氷河」
と。
あの時も俺は、一応 彼女に、
「誰?」
と尋ねたと思う。
答える代わりに綺麗なお姉さんは、
「マーマは優しい?」
と、俺に尋ねてきた。

あの時は、彼女が何者なのかということより、その質問に肯定の答えを返すことの方が、俺には大事なことだった。
俺はもちろん、すぐに大きく頷いた。
「うん」
そうだ。
俺の迷いのない返事に、あの時も彼女は嬉しそうに目を細めて――だが、どこか寂しげに静かに、微笑したんだ。
「氷河は、今 幸せ?」
「幸せって何だ?」
「生きててよかったと思うことだよ。生きてて、よかった?」
「うん。だって、生きてないとマーマと一緒にいられないじゃないか」
「そうだね」

春よりも春のような彼女の温かい笑顔。
俺は、初めて会った時から彼女が好きだった。
この綺麗なお姉さんは、俺を知っている。
なら すぐにまた会えるだろうと思って、俺は、彼女の『さようなら』に食い下がらなかったんだ。
俺の予想――むしろ期待――は外れ、次の機会は すぐには来なかったが。


俺が次に彼女に会えたのは、それから4年後も経ってからのことだった。
俺は13歳。シュコーラの7年生に進級したばかりの9月。
本当のことを言えば、俺は彼女のことをすっかり忘れていた。
普通の9歳の子供が、ほんの二言三言 言葉を交わしただけの通りすがりの人間を いつまでも憶えているわけがない。
俺は普通の子供だったしな。
その代わりと言っては何だが、彼女に再会した時、俺は一瞬で彼女のことを思い出した。
昔――普通の子供にとっては“4年前”は十分に昔だ――俺に“幸せ”の意味を教えてくれた あの人だと。
彼女は4年前と同じように、ふいに俺の前に現われ、4年前と同じことを俺に訊いた。
「氷河は幸せ?」
と。
もちろん、俺は、4年前と同じ答えを彼女に返したんだ。

4年前には俺よりずっと大人だった彼女は、二度目に会った時には、“俺より年上かもしれないが、大して歳は違わない人”になっていた。
でも、大人みたいに落ち着いていて、4年前 俺より大人だった人は当然 今の俺より年上のはずだから、俺は彼女の変化の無さを あまり不思議に思わなかったんだ。
大人の外見は 子供ほど劇的には変わらないものだし、子供にとって“大人”っていうのは、20歳でも50歳でも等しく“大人”だから。
ただ、13歳の俺は、9歳の俺より、彼女が綺麗で優しそうな人だということに大きな価値を感じるようになっていた。
赤ん坊には人間の美しさの価値がわからないが、10歳の子供には それがわかる。20歳になったら、それは更に特別な意味――魅力を持つようになる。
要するに、美しさというものへの価値観が変わってくるんだ。
そして、彼女は素晴らしく綺麗なお姉さんだった。
この俺が、マーマとどっちが綺麗だろうと悩むくらいに。

13歳の俺は、9歳の俺と違って、彼女と別れてからも彼女のことを忘れることができなかった。
その眼差し、その面影が脳裏から消えることはなかった。
13歳の子供は もう“恋”という言葉も、その意味も、それがどういうものなのかも知っている。
そして、彼女は、『マーマより綺麗な女の子なんて この世にいるわけがないんだから、俺は一生 恋なんてできないだろう』と信じかけていた俺を、『マーマとどっちが綺麗だろう』と悩ませることのできる人。
『俺が もし恋をするなら、その相手は彼女しかいない』と俺が思ったって、それは少しも不思議なことじゃない――むしろ、自然なことだ。
彼女に会えずにいた5年間、俺は、彼女への恋心を募らせることになった。
会いたい、会いたい、もう一度――と。

『恋を育てるのは、恋人と会っている時間じゃなく、会えずにいる時間だ』と言ったのは誰だったか。
その言葉は真実を言い当てていると実感しながら、俺は 再度彼女が俺の許にやってきてくれる日を待ち続けた。
俺はもう二度と彼女に会うことはできないんじゃないかという不安に苛まれながら、そのたび自分を鼓舞し、心の中に希望を生みながら。






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