そして、ついに今日、俺は彼女との三度目の出会いを果たしたんだ。
俺は18。
シュコーラは、この夏に卒業した。
今 俺はシュコーラの校長に、ペテルスブルクかモスクワの技術物理大学か工業大学に行くことを勧められていて、その勧めに従うべきか否かを迷っている。
大学進学と言っても、母一人子一人の家庭は決して裕福なわけじゃないから、もちろん無料コースの話。
無料コースは競争率は高いが、俺の学力ならまず大丈夫と言ってもらえている。
在学中の生活費は町が貸してくれる制度があって、俺が望めば、校長が推薦状を書いてくれるそうだ。
財政が豊かとは言い難い小さな町のこと、もちろん無利子というわけじゃないが、それは奨学金の予算を取りやすくするための方便で、その利率は限りなくゼロに近いもの。
つまり、俺が大学に行けば、その間 俺の家の家計からは俺の生活費の支出がなくなるということで、校長の勧めは我が家の家計には実に有難いものだった。

にもかかわらず 俺が迷っているのは、それがペテルスブルクの大学であれモスクワの大学であれ、まさかマーマと一緒に行くわけにはいかないから。
大学に進むためには、俺は一人で この町を出なければならない。
休暇ごとに帰ってくるにしても、最低でも4年の間はマーマと離れて一人暮らしをしなければならないんだ。
それくらいなら、この家から通えるところに仕事を見付けて 暮らしを助ける方が、マーマを一人にせずに済むし、俺のためにもマーマのためにもいいんじゃないか。
それが俺の迷いのいちばん大きな理由。

そして、それとは別に もう一つ。
俺がこの町を出たら、彼女が俺に会いにこれなくなってしまうんじゃないかと、俺はそれが心配だった。
だから、今の俺の境遇を知らせて、俺がもしペテルスブルクやモスクワに行っても 彼女は俺に会いに来ることができるのかどうか、それを確認してから自分の身の振りを決めたいと、俺は思っていたんだ。
大学の特別入学試験まで、あと半月。
間に合ってくれてよかった。
俺の将来を決めるのは彼女だ。
俺の記憶にある通りに綺麗な――いや、今はむしろ可愛い――彼女。

彼女が間に合ってくれたことに 胸中で安堵しながら、その実 俺は俺の将来などどうでもいいと感じている自分に気付いた。
大学に行くか行かないかなんて、どうでもいいことだ。
大事なのは、いつまでもこの人と一緒にいるには どうすればいいのかということだった。
また俺の前から姿を消そうとしている彼女(いや、彼か?)に、俺は尋ねた。
「もしかして、君は男か」
「そうだよ」
彼女――もとい、彼――が、あっさり俺の疑念を肯定してくる。
俺は、自分でも驚くほど、その事実に衝撃を受けなかった。
男であれ、女であれ、彼がマーマと争うほどに綺麗なことに変わりはない。
俺が恋をすることができるのは、この人しかいないんだ。
「それでもいい。ずっと好きだったんだ。名前を教えてくれ。どこに住んでいるんだ。また会えると約束してくれるまで、絶対に離さない」
そう言って、俺は、彼の手首を掴んでいた手に更に力を込めた。
俺はもう9つの子供でも13歳の子供でもない。
18の男に『好きだ』と言われることの意味は、彼にもわかるはず。
たとえ同性でもわかるはずだった。

俺の告白に、彼は困惑したような素振りは見せたが、とんでもなく驚いている様子は見せなかった。
同性からの告白に嫌悪の色も見せない。
男が男に恋をすることは あり得ないことだが、俺が彼に恋することは あり得ないことではない。
そう思っているような表情を、彼は俺に見せた。
当然 俺は、彼からの いい返事を期待したんだ。
なのに、俺が期待したものを、彼は俺に与えてくれなかった。
彼が俺に与えてくれたのは、
「明日、また来るよ。さようなら」
という、いかにも その場逃れとわかる返事。
そんな不確かな口約束で、俺が安心して 彼の手を離せるわけがない。
今度 彼女(実際には、彼だったが)に会ったら必ず手に入れようと心に決めていた情報の提供を、俺は彼に要求した。

「君の名前は」
「瞬」
「どこに住んでいるんだ」
「遠いところ」
「どれくらい」
「うんと」
そんな答えがあるか。
彼は俺から逃げる気でいるんだ。
自分が何者なのかを俺に教えたがらないというのは、そういうこと。
彼――瞬――は、おそらくまた長い別離の時を、俺に耐えさせようとしている。
瞬の言う『明日』は、5年後か? 10年後か?
瞬は俺を嫌っているようではないのに――なぜ 俺に そんな冷酷な仕打ちができるんだ。

「逃げないでくれ。また会いたいんだ。いつも会いたい。ずっと側にいてほしい。俺を苦しめないでくれ」
「苦しめる?」
「君に会えないと、俺は苦しくて死んでしまう。君に会えずにいた この5年間、俺がどれほど苦しんだか――。もう二度と君に会えないんじゃないかと不安に苛まれて過ごす日々に、俺はこれ以上は耐えられない」
「氷河……」
俺は、よっぽど悲痛な目をして瞬を見詰めたんだろう。
俺の訴えを聞いた瞬は、その形のいい眉を ひどく つらそうに歪めた。
そして、悲しそうな目で、俺を見上げ、見詰めてくる。
この5年間 瞬に会えないことに苦しみ続けてきた俺と 今の瞬とでは、いったいどちらの方が より苦しい思いに囚われているんだろうと、俺自身も判断に迷うほどに悲しげな目で。

「……僕、氷河が苦しんでるのは嫌」
瞳だけでなく、声まで つらそうに、瞬が呟く。
なぜだろう。
瞬のその呟きは、俺の告白よりも重たい言葉であるように、俺には思えた。
いったい瞬は、何がそんなに苦しいのか。
たった今 俺に恋を告白されたばかりの瞬が、まさか俺より長い間 恋に苦しんでいたはずがない。
だが、恋でないなら、いったい何に瞬はこれほど苦しんでいるのか。
どんな言葉で瞬を苦しめているものの正体を確かめればいいのかがわからず、言葉で問う代わりに、俺は瞬の名を呼んだ。

「瞬」
「瞬……?」
瞬が、自分の名ではなく 俺の唇が発した音を復唱し、突然 その瞳から涙を流し始める。
「瞬……瞬……」
幾度も その音を繰り返し、繰り返した回数と同じ数だけ、瞬は涙の粒を その瞳から あふれ出させた。
「氷河にまた、その名で呼んでもらえるなんて――」
瞬のその言葉を聞いて、俺は確信したんだ。
瞬は――瞬も、俺を好きでいる。
俺が瞬に恋するより先に、瞬は俺に恋していた。
俺よりずっと長い間、瞬は俺への恋に苦しみ続けていたんだと。
そうでなかったら、名を呼んでもらえた・・・・くらいのことで、瞬がこんなに涙を流したりするはずがない。

次の瞬間、俺は瞬の身体を抱きしめていた。
無責任なことに俺は、そんなことのできる自分に自分で驚いたんだが――だが、俺は5年待った。
次に会えるのが 更に5年後だったらと思うと、俺は、瞬がこうして俺の手の届くところにいるうちに 少しでも二人の間の距離を縮めておきたいという切実な衝動にかられたんだ。
いや、違う。
俺の中には確かに そんな思いもあったかもしれないが、俺は とにかくたった今、この瞬間に瞬を抱きしめたくてたまらなかった。

どんな前触れもなく、何の許しも得ずに突然 そんなことをしたんだ。
俺は瞬の抵抗に合うことも覚悟していたんだが――そうされて当然だとも思っていたんだが――瞬は俺の腕と胸から逃れようとはしなかった。
俺の振舞いを非難することもしなかった。
それどころか――瞬は俺の予想とは逆に、その両腕を俺の首に絡ませ、もしかしたら俺よりも強い力で俺にしがみついてきた。

瞬の指が俺の うなじに触れる。
瞬の指は――その手も、身体もひどく熱かった。
その熱に触れて、俺は、瞬に再会できたことに狂喜して、これまで奇異に思わずにいた あることに気付いたんだ。
真冬のシベリア――通りは、二ヶ月も前から雪で覆われていたのに、瞬はコートすら身に着けていなかった。
まるで 今日が5年前の9月の翌日なんじゃないかと錯覚してしまいそうな軽装で――だから俺は瞬の身体の熱さを洋服越しに感じることができたんだ。
いったい瞬は、どこからここに、そして いつ・・から今日にやってきたのか――。

普段の俺なら、その謎を解き明かそうとしていただろう。
それは『そんなこともあるさ』と右から左に流してしまえるような謎じゃなかった。
真冬のシベリアで防寒具を着けずに外に立っていたら、それは死に直結する。
それほど重要で深刻な謎なのに、俺は瞬に謎の説明を求めなかった。
その時 俺の唇は、謎解きのためじゃなく、瞬の唇の熱と感触を確かめるためにこそ あるものだったから。

抱きしめて、キスをして――瞬の唇がキスに夢中にならず、どこか もどかしげに震えるから、俺は少しだけ 瞬の唇に自由を与えてやった。
そうして自由を得た瞬の唇が 小さく頼りない声で発した言葉は、
「マーマ……家の人が……」
――だった。
俺は瞬と再会し、瞬を抱きしめられることに歓喜し、瞬の存在以外の何もかもを忘れていたのに、瞬はそうではなかったらしい。
瞬の冷静さに、俺は 少し腹が立ち、焦れもしたんだが、瞬にしてみれば それは当然の危惧だ。
俺は、瞬の唇の上で、瞬の危惧を消し去るための言葉を作った。
「ノヴォシビルスクに出掛けていて、明後日まで帰ってこない。今、この家にいるのは俺だけだ」

その言葉を聞いた途端に、それまで僅かに硬く強張っていた瞬の身体から力が抜ける。
これは、二人きりなら――人に見られ知られる可能性がないなら――キスも、抱きしめられることも、もしかしたら それ以上のことも構わないということなのか?
俺は瞬の気持ちを確かめようとして、だが、結局 そうすることをやめた。
そんなことを尋ねるのは不粋というものだし、尋ねて、否定の答えを返されてはたまらない。
だから、俺は、何も確かめずに――少なくとも言葉では何も確かめずに問答無用で――瞬の身体を抱き上げた。
瞬は、言葉でも素振りでも 俺のすることを止めようとはしなかった。
そうして、俺は、驚くほど軽い瞬の身体を俺の部屋に運び入れた。






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