星の子学園で犯罪者(?)を締め上げて、その場面を子供たちに見られるような事態は、倫理道徳の上でも 情操教育の上でも 問題がある。 そこで、犯人を捕えた氷河と瞬は、彼――佐川ヤマトと名乗った――を城戸邸に強制連行し、そこで彼のストーキング行為の事情聴取を行なうことにしたのである。 城戸邸の外観は幾度もカメラに収めていたのだから承知していただろうが、その内部に入るのは もちろん彼はそれが初めて。 佐川ヤマト氏は、城戸邸の、個人の住居のそれとしては ありえない天井の高さ、エントランスホールの広さ、玄関から客間までの廊下の長さ等に、ほとんど本気で怯えていた。 城戸邸の客間の壁に掛かるモネの睡蓮の絵に仰天し、ル・コルビジェの応接セットに目を剥き、無意味なまでに金のかかった調度類に圧倒され――佐川ヤマト氏にとっては、もしかしたら警察の取り調べ室の方が、まだここより威圧的に感じられないものだったかもしれない。 そのせいか、氷河たちの尋問に、彼は極めて素直に――むしろ怯えて――応じてくれたのだった。 佐川ヤマト氏は、アテナの聖闘士のストーキングなどという大それたことのできる青年には見えなかった。 むしろ小心で善良な市民に見える。 絵梨衣は彼の顔や真面目な仕事振りを記憶に留めていないでもなかったらしく、なぜ彼がこんなことをしたのか 全く理解できない様子で、ひどく戸惑っていた。 つまり、犯人がわかっても、絵梨衣には彼の犯行原因に心当たりがまるでなかったのである。 ならば、彼の行為の理由は、彼自身に訊くしかない。 そう考えた氷河が、早速尋問を始める。 「どうして、こんなものを絵梨衣に送りつけたんだ」 氷河の尋問に対する佐川ヤマト氏の答えは、実に珍妙なものだった。 氷河の尋問に、彼は、至って真剣な顔で、 「キャンディをもらったから」 と答えてきたのだ。 「は?」 「え?」 「なんだよ、それぇ?」 キャンディとストーカー行為がどうつながるのかが理解できず、その場に居合わせた人間全員が虚を衝かれた顔になる。 そんなアテナの聖闘士たちと絵梨衣の前で、佐川ヤマト氏は 佐川ヤマト氏が 某宅配業者に1年間の期限つき配達員として雇われ、星の子学園のある地区担当になったのは今から8か月前の春。 星の子学園には全国の篤志家から 衣料や雑貨等寄付の品が送られてくるので、彼は ほぼ毎日星の子学園に荷物を届けにやってきていた。 彼が星の子学園に配達に行くと、荷物を受け取った絵梨衣が 毎回必ず『いつも ありがとうございます』と言って、彼にキャンディを2つ3つ手渡す。 それは、佐川ヤマト氏が星の子学園のある地区の配達担当者になる以前から、星の子学園に荷物を配達してくれる人に続けていた、絵梨衣のちょっとした気遣いだった。 それが嬉しくて――佐川ヤマト氏は絵梨衣に好意を抱いた――つまりは恋に落ちたのである。 その恋は かなり真剣なものだったらしい。 佐川ヤマト氏の言を借りれば、『それまでの ちゃらんぽらんな生活態度を深く反省』した彼は、染めていた髪を黒く戻し、毎日 極めて真面目かつ熱心に自らの仕事に励んだ。 すべては絵梨衣に“信頼に足る 誠実な人”だと思ってもらうため。 そのために、彼は懸命に努めたのである。 ところが、まもなく、その真面目さ熱心さが仇になるような事態が勃発。 真面目で熱心な仕事振りが認められ、異例の早さで 期限つき契約社員から正社員に登用されたヤマト氏は、来年から ある取次店の責任者に抜擢されることが決まり、担当地区が変わることになってしまったのだ。 担当地区が変われば、もう星の子学園に配達に来ることはできなくなる。 絵梨衣にも二度と会えなくなるかもしれない。 思い悩んだ彼は、玉砕覚悟で絵梨衣に自らの思いを告白することを決意したのである。 そうして彼は、仕事が休みの日に、一張羅を着込んで、初めて宅配便業者の配達員ではない者として 星の子学園を訪問した。 だが。 その日、たまたま星の子学園には城戸邸の青銅聖闘士たちが来ていた。 (ヤマト氏の証言から察するに、その日は青銅聖闘士たちが 星の子学園でのクリスマスパーティで子供たちに配るプレゼントを届けるようにと、沙織から言いつかった日だった) その中の一人――星の子学園で初めて見掛けた金髪の若い男に、絵梨衣が特別に気を遣っているのが、ヤマト氏にはわかった。 『気の配りようが普通じゃなかった』とはヤマト氏の弁。 『この金髪野郎が 絵梨衣さんの特別な人なのだと、俺には すぐにわかった』と、ヤマト氏は悔しそうに言った。 つまり、彼は勘違いをしたのである。 絵梨衣が氷河に特別な好意を抱いていると。 ヤマト氏の話し振りから察するに、彼はそれまで女性から好意を持たれることが多く、自身の容姿に それなりの自信を持っていたらしい。 彼が、彼曰く“生まれて初めての真面目な恋”を 至極あっさり諦めることになったのは、自分の唯一の取りえと思っていた“顔”で氷河に負けた(と感じた)からのようだった。 ヤマト氏にとって“生まれて初めての真面目な恋”。 これまでの不真面目な(?)恋とは異なり、彼は、絵梨衣のへ恋の成就の見込みがなくなったことを 笑って受け入れることも、ヤケになって騒ぎ暴れることもできず、深く静かに傷心した。 そして、健気にも彼は、異動の日までは絵梨衣を見ていることができるのだと自らの心を慰めつつ、最後の日まで黙って真面目に仕事に務めることを決意した――のだそうだった。 だというのに。 「なのに、先々週の水曜、俺は、こいつが絵梨衣さんじゃない女の子と街を歩いてるのを、配達のトラックの運転席から見掛けたんだ! ありえないだろ! こいつは、絵梨衣さんがいるのに、他の女の子とべったり くっついて、ウィンドウに飾られてるクリスマス用のオーナメントなんか見てたんだぞ! クリスマスを絵梨衣さん以外の女の子と過ごすつもりだったんだ!」 「クリスマスを 俺は瞬と一緒に過ごすつもりだったし、実際 一緒に過ごした。それで何か問題があるのか」 それでなくとも ヤマト氏は、絵梨衣以外の女の子とべったりくっついていた金髪男に激昂しているというのに、氷河が不思議そうな顔をして 火に油を注ぐようなことを言う。 滅多に見られない氷河の火炎系の技に、星矢と紫龍は頭を抱えたくなってしまったのである。 氷雪の聖闘士なら氷雪の聖闘士らしく、燃え上がるヤマト氏の怒りの炎を凍結させるくらいのことをしてほしいと、彼等は空しい願いを その胸に抱いた。 それはともかく。 ヤマト氏は、鼻の下をのばして瞬と連れだって歩いている氷河の姿を見て、絵梨衣の恋人は、素行のよくない男なのではないかと心配になった。 “生まれて初めての真面目な恋”を断腸の思いで諦めるのだから、絵梨衣には 真面目な男と幸せになってほしい。 そう考えたヤマト氏は、その日以降、休日や休憩時間を、絵梨衣の幸せのために氷河の素行調査に当てることを始めた――のだそうだった。 その結果わかったことは。 絵梨衣の恋した男が、どう見ても家族ではない女の子と同じ家に住んでいること――同棲していること。 それだけでも噴飯物の事実だというのに、氷河は、仕事をするでもなく、学校に通うでもなく、毎日 絵梨衣以外の女の子と遊び歩いていたのである。 (実際には、氷河は、沙織の命令で“仕事”をしていたのだが、ヤマト氏の目には そう映ったらしい) 「ちょっとばかり顔の作りがいいからって うぬぼれて、貴様は絵梨衣さんと その子に二股かけてたんだろ! 男として最低だ。不誠実な嘘つき野郎! 毎日 仕事もせずに だらだらしている顔だけ男! 貴様は男の敵だし、女の敵だ。貴様は、絵梨衣さんにも その子にも 綺麗さっぱり振られるべきなんだ!」 「ふ……二股野郎 !? この俺が !? 」 氷河は、基本的に、“一つの目的、一つの目標を定めたら、それに向かって脇目も振らず邁進し、周囲を全く顧みない男”である。 そう揶揄され、非難されることには慣れていた。 だが、“二股野郎”とは。 それは、氷河には、それこそ 生まれて初めて言われた言葉だった。 彼は、佐川ヤマト氏の斬新な評価に 大々的に驚き、目を剥いてしまったのである。 星矢や紫龍が“二股”の件には全く触れず、 「他のすべては否定しても、氷河の顔の作りがいいことだけは認めるんだなー」 「微妙にして複雑なオトコゴコロというところか。まあ、確かに氷河は、生産的なことは何もできない顔だけの男だからな」 とかなんとか、ヤマト氏の非難に のんきなコメントをつけていられたのは、氷河が二股をかけるなどという器用なことのできる男ではないことを、彼等がよく知っていたからだったろう。 「俺は、この顔だけ男の不品行の証拠を揃えて、それを絵梨衣さんに知らせて、ろくでもない男とは別れた方がいいと忠告しただけだ! 親切心だったんだ。彼女が傷付くのを見たくなかった」 佐川ヤマト氏は、自分のしたことを褒められるようなこととは思ってなかったが、責められるようなことでもないと思っていたのだろう――責められるのは氷河の方だと思っていた。 にもかかわらず、ヤマト氏の予想に反して、二股男を責める言葉は、その場にいた誰の口からも発せられることはなかった。 絵梨衣の口からも、氷河の二股のもう一人の犠牲者である“女の子”の口からも。 氷河への非難の言葉の代わりに、城戸邸の客間を包んだのは、何とも微妙な空気。 二股男、絵梨衣、瞬、星矢、紫龍――ヤマト氏以外のすべての人間が、恋した人の幸せのために努力邁進した(?)男を、いわく言い難い顔で見詰めていた。 城戸邸の客間を覆った微妙な静寂を、やがて星矢の溜め息混じりのぼやきが破る。 かりかりと頭を掻きながら、星矢は少しばかり疲れの感じられる声で言った。 「つまり、これは、心霊写真じゃなく、興信所の浮気現場写真みたいなものだったのか」 「盲点だったな。なるほど、一般人の目で見れば、この写真に写っているのは、男女のカップルが夕刻に同じ家に入り、早朝 同じ家を出ていく場面なわけだ。……城戸邸がラブホテルだったらわかりやすかったかもしれんが」 「今時は、アミューズメントホテルとかファッションホテルとか言うらしいぜ」 「なんだ、その欺瞞に満ち満ちた呼称は。連れ込み宿だろう、要するに」 「俺が瞬をそんなところに連れ込んだりするかっ!」 放っておくと、どこに向かって脱線していくかわかったものではない仲間たちの会話を、氷河が怒声で元の場所に引き戻す。 平生なら 星矢と紫龍の戯れ言など華麗に無視してのける氷河が、あえて仲間たちを元の場所に引き戻したのは、彼の名誉を そして、星矢が氷河の期待する仕事に取りかかったのは、どちらかといえば氷河の名誉回復のためではなく、瞬と絵梨衣のためだった。 氷河に二股をかけられている(ことになっている)瞬と絵梨衣のために、星矢がヤマト氏に向かって、 「あのなー、にーちゃん。にーちゃん、色々誤解してるぞ」 と告げる。 「何が誤解なんだ。こいつは二股男だ!」 「だから、それが誤解なんだって。まず、これは男女の密会写真になってない。瞬は男だ」 「へっ」 佐川ヤマト氏は、星矢のその言葉を聞いて、一瞬 虚を衝かれた顔になった。 |