そういうふうでしたので――“人事を尽くして 天命を待つ”状態だったエリスは、待てど暮らせど天命がやってきてくれないことに 苛立ちを募らせることになったのです。 期待が大きかった分、エリスの苛立ちはとても激しいもので、その激しい苛立ちは 早晩 激しい憤怒に変わるだろうと思える気配を見せ始めていました。 「瞬王子は 大きな騒ぎが起こるって言ってたのに、一向に 騒ぎは起こらないじゃないの! これは いったいどういうことっ !? 」 エリスの憤怒直前のいらいらの犠牲者は、もちろん彼女の亡霊聖闘士たちです。 日を追うごとに激しくなっていくエリスのヒステリー。 逃げることも叶わず、彼女のヒステリーを正面から受けとめざるを得ない亡霊聖闘士たちの日々は、言葉では とても言い表わせないほど過酷なものでした。 エリスの亡霊聖闘士たちがエリス以上に待ちわびていた“天命”が ついにやってきたのは、エリスの亡霊聖闘士たちが、 「こうなったら、いっそ俺たちが悪役になって、エティオピアかヒュペルボレイオスに攻め込み、騒ぎを起こすしかないのではないか。これ以上エリス様の機嫌が悪くなる事態は避けたい」 なーんてことを話し合い始めていた頃。 エリスが人事を尽くし終えて半月ほどが経った ある日、エリスと亡霊聖闘士たちが待ちに待っていた大きな騒ぎがついに起こったのです。 その大きな騒ぎは、ヒュペルボレイオスでもエティオピアでもなく、ギリシャ南西部にあるオリュンピアの地で勃発しました。 当時、ギリシャ世界では、4年に1度、オリュンピアで、大神ゼウスを祭神とするオリュンピア大祭という競技会が行われるのが習わしになっていました。 ギリシャの各国から若く たくましい男子たちがやってきて、自国の名誉をかけ、徒競走や円盤投げ、槍投げやレスリング等の種目で技術体力を競うのです。 大祭前後の3ヶ月間は、ギリシャ全土からオリュンピアに集まる参加者たちの移動の安全を確保するため、すべての国が戦争を中断することになっていました。 そんな平和の祭典が“大きな騒ぎ”の原因になったのは、要するに、オリュンピア大祭が ヒュペルボレイオスの国の国王と選手団と応援団、エティオピアの国の国王と選手団と応援団が親しく言葉を交わす機会になったからです。 それまで公然の秘密だった氷河王子と瞬王子の恋が秘密でなくなったので、ヒュペルボレイオスやエティオピアの人々は、オリュンピアの競技場や宿で 二人の恋を堂々と語り合うことができるようになっていました。 有名人の恋愛沙汰は、洋の東西を問わず、いつの時代も、庶民の恰好の噂話の種。 二人の王子は お留守番のために それぞれの国に残っていましたので、オリュンピアの地で誰が何を話そうと、当人たちに聞かれる心配もありません。 その安心感から、両国の人々は遠慮なく、少々 下世話な勘繰りを交えつつ、王子たちの恋について言いたい放題をしたのでした。 言いたい放題――といっても、彼等の噂話は 最初のうちは、それぞれに美しいと評判の二人の王子から成るカップルを羨んだり、あるいは自国の王子を自慢したりと、比較的 穏やかなものでした。 ヒュペルボレイオスの選手団応援団とエティオピアの選手団応援団は、両国の王子様が仲良しなのだから、自分たちが仲違いをする理由もないと、最初のうちは 和気あいあい状態だったのです。 両国の人々の間に漂っていた平和な空気が一変したのは、氷河王子と瞬王子の二人以外は知らない ある事実を巡って、人々の意見が対立したからでした。 “氷河王子と瞬王子の二人以外は知らない ある事実”とは、すなわち、氷河王子と瞬王子の どちらが攻めで、どちらが受けなのかという問題です。 「氷河の方が年上だし、体格も優れている。当然、氷河が攻めに決まっている」 と、ヒュペルボレイオスの国王が言えば、 「笑止! 歳や体格が何だというのだ。氷河などより、瞬の方が はるかに強いわ!」 と、エティオピアの国王が言い返します。 「いやいや。私は、貴殿の弟君を見たことがあるが、瞬王子は大変可愛らしく、その上 控えめで大人しい王子とお見受けした」 と、ヒュペルボレイオスの国王が瞬王子の印象を述べ立てれば、 「それは見た目だけの話だろう。瞬は やる時はやる男だ。今時、年下受けだの姫受けだのは流行らない。今は、年下攻め、男前受けの時代だ。まあ、貴国の王子が男前かどうかということは、気の毒だから言及はしないが」 と、エティオピアの国王が反論します。 その後は、売り言葉に買い言葉でした。 「貴公は、ヒュペルボレイオスを侮辱する気か!」 「貴殿こそ、エティオピアを見くびるのは やめてもらおう。まあ、一度 瞬と戦ってみればいいんだ。氷河の馬鹿に限らず、瞬に勝てる者は、ヒュペルボレイオスには ただの一人もいないだろう。それは もちろん、貴公とて例外ではない」 「なんだとーっ !! 」 とまあ、そんな感じで、両国の国王から始まった言い争いが、やがて選手団や応援団の者たちにまで波及していったのは、当然といえば当然、自然といえば自然な成り行きでした。 その対立が、ヒュペルボレイオスとエティオピアだけでなく、ギリシャ全土から集まった国王 及び選手団応援団を巻き込んだ騒乱に発展していったことも当然で自然な成り行きだったかといえば、それは大変 判断の難しい問題ですけれどね。 争いがヒュペルボレイオスとエティオピア両国間に収まっていたなら、エティオピアの国王が何と言おうと、瞬王子受け派が大勢を占めることになっていたでしょう。 けれど、オリュンピア大祭のために集まっていた人々の大半は、瞬王子の姿を知りません。 彼等は、『瞬王子=エティオピア国王の実弟』という情報だけで 二人の王子の受け攻めを判断するしかなかったのですから、混乱は必至。 かくして、平和の祭典であるオリュンピア大祭は、ギリシャ全土を二つの勢力に分けての大争乱勃発の引き金となってしまったのでした。 そして、その争いは、オリュンピア大祭が終わり、各国の人々が自国に帰ったあとも ずっと続いたのです。 |