アテナの聖闘士は諦めが悪い。 というより、決して諦めないのがアテナの聖闘士である。 彼等の心身には、不屈の闘志が備わっているのだ。 それが幸福なことなのか不幸なことなのか、良いことなのか悪いことなのか、そんなことは問題ではない。 この場合、問題なのは、身に備わった不屈の闘志のために、氷河が、瞬のナルシシスティック・エクスプロージョンによって受けた衝撃からも立ち直れてしまったこと。 氷河が、それでも、どうしても どうしても瞬への恋心を断ち切ってしまえないことにあった。 瞬のナルシシスティック・エクスプロージョンを真正面から受け 撃沈した氷河は、その3日後には 早くも浮上し、反撃の構えを見せるところまで、驚くべき強靭さで回復した。 とはいえ、彼が瞬への反撃に及べるはずもなく、復活成った彼の反撃の矛先は、主に星矢と紫龍に向けられることになったのだが。 「俺は断じてナルシストではない! ナルシストなんて、俺には最も理解し難い人種だ。そもそも自分のツラなんか好きになってどうするんだ。鏡を持ち出さないと見ることもできない自分のツラが綺麗だろうが醜かろうが、そんなことはどうでもいいことじゃないか。大事なのは、俺の目の前にある顔が――普段 俺の視界に映る顔が綺麗かどうかということだ。見ていて気分のよくなる顔が、すぐそこにあることこそが大事なんだ。だから、俺は瞬が好きなんだぞ! どうして俺がナルシストだと誤解されることになるんだ! どうして そんな馬鹿げた考えが生まれてくるんだ!」 「まあ、そう興奮するな」 せっかくナルシシスティック・エクスプロージョンの衝撃から立ち直ることができたというのに、これでは氷河は 自分の脳の血管を自ら ぶち切ってしまいかねない。 目の前で赤い布を ちらつかされた牛のように興奮している氷河に呆れつつ、とりあえず 紫龍は仲間の興奮を静めるべく行動を起こすことにしたのである。 怒り興奮することで 騒動騒乱の類が丸く収まったことは、長い人類の歴史の中にも数えるほどしかないだろう。 氷河の激昂は、全くもって非生産的、非建設的だった。 「バレンタインチョコレートへの反論は、ホワイトデーのお返しで行なうのが妥当だろう。ホワイトデーに、非ナルシストの証明になるものを贈ってみるというのはどうだ?」 「非ナルシストの証明? 何を贈れば、非ナルシストの証明になるんだ」 氷河の反問を受けた紫龍が答えに詰まる。 紫龍は、単に、興奮している氷河を落ち着かせるために建設的と思われる意見の一例を口にしてみただけで、特に妙案があったわけではなかったのだ。 何が非ナルシストの証明になるのか、そんなことはナルシストの疑いをかけられた当人が考えるべきものだろうと言ってしまいたいところだったのだが、それでまた氷河に牛になられても困る。 紫龍は、内心 大いに慌てて、その場逃れのアイデアを一つ、氷河の前に提示した。 「それは……そうだな。たとえば、瞬を飾るアクセサリーの類とかはどうだ? それなら、自分を飾ることには興味がないことを、瞬に訴えることができる。おまえが、自分を飾ることより瞬を飾ることの方が意義ある行為だという考えを持っていることを証明できるのではないか」 「できねーだろ」 紫龍の その場逃れの思いつきを、星矢が脇から あっさり否定する。 「できんか?」 もともと深慮の末に出てきた方策でもなかったので、星矢に確認を入れる紫龍の声には自信も勢いもなかった。 そんな紫龍とは対照的に、星矢が実に力強く頷く。 そして彼は白鳥座の聖闘士の方に向き直り、彼に問うた。 「氷河、おまえ面食いだろ」 「なに?」 「瞬を好きだってことは、そういうことじゃん」 「俺は瞬の外見だけでなく、瞬の優しさとか強さとか――」 同様に不名誉なレッテルであっても、“ナルシスト”よりは“面食い”の方が、まだ幾分ましなレッテルである。 とはいえ、それは心から喜んで受け入れられる評価でもなかったので、氷河は とりあえず、星矢への反駁を試みた――試みようとした。 残念ながら、彼は、彼が言おうとした反駁の言葉を途中で星矢に遮られ、最後まで言い終えることができなかったが。 「『外見だけでなく』ってことは、外見も好きだってことだろ」 「それはまあ……。いつも見ている顔は、醜いよりは綺麗な方がいいに決まっている」 「それを面食いって言うんだよ。綺麗なものを自分の側に置きたいって考える性向のことを」 「そういうものか……?」 “ナルシスト”よりは“面食い”の方が、まだ幾分まし。 その考えが、星矢の決めつけに対する氷河の反発心を、比較的弱いものにする。 彼にしては珍しく、(ちょっとだけ)素直従順の美徳を示した氷河とは逆に、星矢の声と言葉は 一層勢いを増していった。 「面食いのおまえにとってはさ、つまり、瞬自身がおまえを飾るアクセサリーなんだよ。瞬が綺麗であればあるほど、おまえの自己顕示欲は満たされる。瞬を飾るアクセサリーってのは、おまえのアクセサリーであるところの瞬を更に飾るものってことで、だから 瞬にアクセサリーの類を贈るってことは、おまえがナルシストだってことの証明にしかなんねーわけ」 星矢が主張するにしては、くどい理屈である。 『それは詭弁だ』とまでは言うつもりはなかったが、星矢の主張する理論は自分には該当しない理論だと、氷河は思った。 「だから、俺はナルシストではないと言ってるだろう! ナルシストも何も、俺なんか、瞬の千分の一も万分の一も綺麗じゃない。瞬こそが、この地上で最も美しい――」 「残念だったなー。そのセリフを瞬の前で言ってもさ、瞬は おまえが狂ったんじゃないかと思うのが関の山だ。瞬は、自分が綺麗だとか 清らかだとか 思ってもいないから。瞬は、まるっきり、そういう自覚ないから」 「む……」 それは確かに星矢の言う通りだった。 瞬に『綺麗だ』と言っても、瞬は自分が何を言われているか理解もできまい。 そんなことを言う人間の正気を疑う――ことまではしないかもしれないが、そんなことを言う人間の目の調子を案じるくらいのことはしかねない。 それはつまり、『白鳥座の聖闘士は、自分より美しい人間の存在を認めているから、ナルシストではない』という理屈が 瞬には通じない――ということだった。 「綺麗だの清らかだの清楚だのと、幾人もの人間に あれだけ繰り返し言われているのに、瞬の自覚のなさは驚異的、ほとんど奇跡と言っていいほどだからな」 今の氷河には有難くも何ともない紫龍のコメント。 「聞き流してるんだろ。瞬には、『可愛い』とか『綺麗』ってのは言われて嬉しい言葉じゃないから。瞬は 逆に『男らしい』とか言われると喜びそうだよな。そういうの、言われ慣れてないから、瞬の耳には新鮮に聞こえるだろうし」 星矢のコメントも、今の氷河には全く役に立たない、むしろ不都合な代物だった。 そのコメントが、『おそらく その通りだろう』と首肯しないわけにはいかない内容であることに、氷河は虚脱感さえ覚えていた。 星矢の言う通り、仲間に『おまえの方が綺麗だ』『おまえの方が可愛い』という類のことを言われても、瞬は少しも喜ばないだろう。 星矢の その意見には賛同するが(賛同しないわけにはいかないが)、だからといって 「いっそのことさ。『おまえは実に男らしい。俺は、男らしいおまえを好きになった』みたいな感じで告白してみたらどうだ? それならきっと、瞬は聞き流さないぞ。聞き流すどころか、感激して男泣きに泣きだすかも」 という星矢のアイデアに飛びつくことは、氷河には、天地がひっくり返ってもできないことだったのである。 「そんな嘘がつけるか!」 星矢の提案を、氷河は言下に却下した。 それが まさに“言下”のことだったので、迅速にすぎる氷河の判断と決断に、星矢は両の肩をすくめることになったのである。 「断言してきやがったな。それって嘘になるのかよ? あーあ、瞬も大概 かわいそうだよなー。あいつ、そんじょそこいらの男共よりずっと男らしいのに」 「しかし、瞬は、男らしさより、可愛らしさや清らかさの方が はるかに勝っている。こればかりは動かしようのない事実だ」 またしても氷河は、一瞬の ためらいもなく、きっぱりと断言した。 既に落とす肩がなかった星矢は、掛けていたソファの背もたれに 己れの全身を沈み込ませてしまったのである。 いくら当人が この場にいないからといって、氷河の断言は あまりに力強すぎる。 そして、氷河は自信に満ちすぎている。 兄一輝のような男らしさを希求している瞬を知っているだけに、氷河にここまで力強く断言されてしまう瞬が、星矢は気の毒でならなかった。 同時に、瞬への遠慮も思い遣りの気持ちもない氷河の言い草に、少なからず 腹も立つ。 「話が脱線しているぞ。今 問題なのは、瞬が男らしいかどうかということではなく、氷河がナルシストではないことを証明するには どうしたらいいのかということだろう」 思い切り脱線したあげく、進退両難状態に陥っている仲間たちのディスカッションの軌道を元に戻すべく、横から紫龍が口を挟んでくる。 「ああ、そうだった。すっかり忘れてたぜ」 「だが、どうすればいいんだ」 紫龍の忠告を受けて慌てて本道に戻った氷河は、だが、その本道をどちらに進めばいいのかが わからなかったのである。 一方に、『白鳥座の聖闘士はナルシストである』と信じる瞬がいて、もう一方に、『白鳥座の聖闘士はナルシストではない』と主張する白鳥座の聖闘士がいる。 両者の間に横たわる巨大な乖離を埋めることができるのは、『白鳥座の聖闘士はナルシストではない』という事実のみなのだが、その事実の証明が極めて困難なのだ。 瞬は『白鳥座の聖闘士はナルシストである』と“信じて”いて、白鳥座の聖闘士は『白鳥座の聖闘士はナルシストではない』と“主張して”いる。 信じることと 主張すること。 その二つは、事実の それゆえに、瞬の認識を覆すことは非常に困難な作業なのだ。 「これは やはり、もっと根源的、根本的なところから 地道に 瞬の認識を正しにかかるしかあるまい」 「もっと根源的なところ?」 「ああ。つまり、ナルシストとはどういう人間のことを言うのかという定義を明確にし、その定義の一つ一つに反証を挙げていくことで、おまえがナルシストではないことを証明していくんだ」 「それって、なんか まだるっこしそうだけど、でも 確かに道はそれしかないかもな。あ、それでいったら、俺、ナルシストの定義なんか知らねーや。顔の造作の出来のいい奴のことをナルシストっていうんじゃないのか?」 「おい、星矢……」 これまで ナルシストの何たるかも知らずに ナルシストを語っていたという星矢の衝撃の告白を受けて、氷河の全身から 力が抜けていく。 すっかり やる気をなくした 「ナルシストというのは、一般的には、自分の容貌や肉体に異常な愛着を感じている人間のこと――とされているようだな。幼い頃に、自分にとって重要な人間を失ったり 幻滅したりすることによって、他者の価値や存在、自分の価値や存在の認識を正しく行なうことができなくなったり、他者と自分の間で揺れ動き、他者との適切な関係を構築することができなくなることが、人をナルシストにする原因――とされているようだ。ちなみに、この場合の“重要な人間”は、自分にとって“最初の他人”である親であることが多い」 「それって、まんま氷河じゃん。マーマを失ったショックがでかすぎて、普通でなくなったんだろ」 「そう安易に決めつけるのも危険なことのような気はするが……。とにかく、ナルシシストは自己愛備給のために、他者から注目されることを求める。それによって傷付きやすい自尊心を守ろうとするんだ。ナルシストというのは、自己顕示欲が強い人間であると言うことができるだろう」 「やっぱ、氷河だよなー。あの妙ちくりんな踊りとかさ。あれって、馬鹿なことして 自分に注目を集めるために踊ってるんだとしか思えねーし。氷河、おまえ、自覚してなかっただけで、実は立派なナルシストだったんじゃないか?」 自分のことが討議されているというのに、やる気がなさそうに だれきっていた氷河に、星矢が意見を求める――というより、導き出された一つの結論を提示してみせる。 それは、やる気の失せていた氷河にも 他人事のように聞き流すことのできない結論だった。 「この俺がナルシストだとっ !? 貴様は何を言い出したんだ! この俺のどこに 自己愛性パーソナリティ障害の気があるというんだ!」 星矢が提示した結論は、氷河には あまりにも乱暴な決めつけに感じられた。 もちろん彼は即座に異議を唱えたが、星矢は、彼にしては真面目な顔で 氷河の異議を却下してきたのである。 「前言撤回することになるけどさ。おまえが瞬を好きなのは、瞬を自分を飾るアクセサリー扱いしてるからじゃなく、そんな次元を通り越して、瞬を自分と同一視してるからなんだよ。自分は綺麗、綺麗なものは自分。で、瞬は綺麗。つまり、『瞬 イコール 自分』。だから、おまえは瞬を好き、つまり、自分を好き。これって、立派なナルシストだろ。たまたま自分の外に もう一人の自分がいるってだけで」 「い……いくら何でも論理の飛躍が過ぎるだろう。俺は瞬を自分と同じものだとは思っていない。瞬は俺の千倍も万倍も綺麗だ。同一視なんかするか。俺と瞬では、そもそも心の出来が格段に違う」 「なら、瞬は、おまえがなりたい自分なんだろ。理想の自分。だから、おまえが瞬を好きなのは、やっぱり自分を好きだってことなんだよ」 「そ……そんなことがあるはずが……」 「瞬は、人当たりは やわらかいけど、勘は鋭いからなー。瞬は、おまえがナルシストだってことに、とっくの昔に気付いてたんだ。おまえがナルシストだってことは、瞬には ばればれ。これはもう諦めるしかないだろ。おまえがナルシストだったとしても、瞬はそれで人を差別したりするような奴じゃないけど、さすがの瞬も、ナルシストと恋仲になろうとは思わないだろうからなー」 「……」 それは、正しく、大いなる論理の飛躍による“決めつけ”だった。 しかし、今 問題なのは、白鳥座の聖闘士がナルシストなのかどうかということではなく、瞬が 白鳥座の聖闘士をナルシストだと思っているのかどうかということなのである。 瞬から贈られたスイセンの花のバレンタインカード。 瞬は、ナルシストだからといって人を差別することはないだろうという、実に同意しやすい星矢の推察。 そんな瞬でも ナルシストと恋仲になろうとは思わないだろうという、極めて一般的かつ常識的な判断。 何より、『瞬と一つになりたい』という思いは、確かに以前から氷河の中に 強く大きな力をもって存在する願望だった――。 「まさか……そんなことが……」 もしかしたら 自分は本当にナルシストなのか。 そして、それは、既に瞬の知るところとなっているのか――。 この場合 重要なのは、“事実”ではない。 人が『そうだ』と信じること。 『そうなのかもしれない』と疑うことなのである。 今、氷河は、『自分はナルシストなのかもしれない』という疑念に囚われていた。 そんなはずはない――瞬への自分の思いが、そんな病的に屈折した紛い物であるはずがない――と思う側から、瞬に贈られたカードのスイセンの花の姿が脳裏に思い浮かんできて、氷河の混乱と当惑を大きくする。 「そんな……この俺が、まさか――」 混乱が極まった氷河が、ぶつぶつと何やら怪しい呟きを呟きながら、覚束ない足取りでラウンジを出ることになったのは、それから約10分後。 衝撃の事実(?)を初めて自覚することになった氷河は 一人になって考えを整理したいのだろうと察し、星矢は 氷河への思い遣りから、あえて仲間のあとを追うことをしなかった。 |