どう考えても危ない状態で――夢遊病者のような表情と足取りで――ラウンジを出て行った氷河を 紫龍が追わなかったのには、星矢の思い遣りとは異なる ある事情があったからだった。
彼には、氷河の混乱を静めるより先に しておかなければならないことがあったのである。
すなわち、氷河をナルシストと決めつけた天馬座の聖闘士に、
「で? おまえは、本気で氷河がナルシストだと思っているのか?」
と問い、その答えを確かめることを。
その質問に対する星矢の答えは、至極あっさり、かつ無責任を極めたものだった。
「まっさかー。ホンモノのナルシストが、顔を地面で掘るアテナの聖闘士なんか やってられるわけないだろ。ナルシストってのは、ミスティみたく、自分に傷がないことを誇るような奴のことをいうんだろ」

星矢の答えを聞いて、紫龍が呆れた顔になる。
星矢は、やはり、瞬に贈られたスイセンのカードのせいで平常心を失っている氷河を からかっていただけだったらしい。
平生の氷河なら、星矢の勢いに押されることはあっても、星矢の屁理屈に 手玉に取られるようなことはないのだが、瞬にナルシスト疑惑をかけられたことが、氷河にはそれほど大きな衝撃だったのだろう。
そう思うと、紫龍は、星矢の誘導に他愛なく引っかかった氷河を 笑う気には(あまり)なれなかった。

「まあ、そうだな。氷河ほどナルシシズムから遠いところにいる男もいない。かなり出来のいい顔立ちをしているのは事実なんだが、奴は それを当たりまえのことだと思っているからな。いつも瞬の顔を見ているから、自分の顔を特別だと思うことができないせいもあるんだろうが」
「瞬の自覚のなさも、いつも氷河のツラを見てるせいだよな。あいつら、自分の顔の造作の出来のよさに、感覚が麻痺してるんだよ」
「でないと、顔で地面を掘るアテナの聖闘士などという商売はしていられないからな」
「まったくだぜ」

恋のせいで頭が弱くなっている男の心配を 本気でしても無意味である。
どのみち、氷河を立ち直らせることができるのは瞬しかいない。
そういう考えのもと、結局 星矢と紫龍は恋する非ナルシスト男を、そのまま放っておくことにしたのだった。






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