「ハーデスの従神、眠りを司る神ヒュプノスと死を司る神タナトス――だったかしら」
沙織が――女神アテナが――二柱の神に椅子を勧めると、彼等は 抵抗なく その勧めに従った。
「ハーデスの従神である あなた方が わざわざ地上にやってきたのは、至福の園エリシオンが退屈で耐えられなくなったから?」
アテナの問いに答えたのは、金色の髪と目を持つ眠りの神の方だった。
「我が主ハーデスとあなたとの戦いは、神話の時代から幾度も繰り返されてきた。退屈な時も必要ですよ。我々は、退屈な時を優雅に楽しんでいられないことが起きたので、こちらに参上したのです」
「退屈を楽しんでいられないこと?」
沙織の反問に、金色の神が頷く。
死を司る銀色の神の方は、アテナとの応対を金色の神に任せ、まるで彼の方が眠りを司る神であるかのように、その目を閉じたままだった。

「先頃――といっても、10年以上前のことですが、予言の神が ある予言を垂れたのです。今度の聖戦は最後の聖戦になるだろうと」
「最後の聖戦?」
「冥界で最後の戦いが繰り広げられるだろうと」
「それで、宣戦布告にやってきたの?」
銀色の神は、相変わらず 何事にも関心がなさそうに目を閉じたまま。
金色の神は、縦にも横にも首を振らなかった。

「冥界で最後の戦いが繰り広げられる――。我々は、その予言を、当然のことながら、我が主ハーデス様が宿縁の相手であるアテナと その聖闘士たちを 復活不可能なほど滅し去る時の訪れを告げるものと解しました。けれど、そこに、このたび 聖域の聖闘士たちがポセイドン軍を打ち破ったという報が飛び込んできた。アテナとアテナの聖闘士の力、侮り難し。そこで 我々は初めて、予言の神の予言が示す もう一つの可能性を考えることになったのです」
「もう一つの可能性?」
知恵の女神が、ヒュプノスの言う“もう一つの可能性”がどのようなものであるのかを察することができなかったはずもない。
にもかかわらずアテナが彼に問い返したのは、彼等の言う“もう一つの可能性”の内容を彼等の口から聞きたかったからだったろう。

「今度の聖戦で冥界が消え去る可能性です」
「……」
期待通りの答えを得て、アテナは嫣然と微笑んだ。
その微笑を消さずに、眠りの神に重ねて問う。
「予言の示すところが そのどちらであったとしても、ハーデス配下のあなた方が ここに乗り込んでくることに どんな益があるというのかしら。あなた方の目的は何。仮にも神である あなた方が、まさか 闇討ち不意打ちなどという さもしいことをするために地上世界にやってきたのだとは考えたくないのだけれど」
「それはもちろん――」
「失礼します。お茶をお持ちしました」

金色の神の答えを遮ったのは、さきほど城戸邸のエントランスホールで二柱の神を出迎えたアテナの聖闘士たちの一人――アンドロメダ座の聖闘士だった。
ポットとカップの載ったトレイを手にした瞬を見やり、沙織が困ったように短い溜め息をつく。
「瞬。なぜ、あなたが」
「あ、今 メイドさんたちが他のお仕事で忙しくて手を離せないので、僕が代わりに」
ちらりと二人の客人に視線を走らせてから、瞬は沙織に 戦いを生業といるアテナの聖闘士がウェイターの真似事をすることになった経緯を説明した。
二人の客人はともかく、この屋敷の主には、残念ながら その弁明は信じてもらえなかったようだったが。

「メイドたちが忙しくしているから、アテナの聖闘士たちが全員 力を合わせて、ここまで お茶を運んできたというわけ? よほど重い お茶だったのね」
沙織が掛けていたソファから立ち上がり、瞬が開けたドアの側に歩み寄る。
その陰に、アテナと客人たちのやりとりの盗み聞きにいそしんでいたらしい瞬の仲間たちの姿を認め、沙織は呆れた顔になった。
「歴戦の勇士が揃って、こそこそと盗み聞きだなんて」
「じゃあ、この ひよっこ共がアテナの聖闘士なのか!」
それまでずっと居眠りをしているようだった銀色の目の男が、初めて口を開いたのは その時だった。
金色の神に比べると、到底 品があるとは言い難い口調と声音。
アテナの相手を金色の神に任せていたのも当然と、実は これまでのやりとりを すべて盗み聞いていたアテナの聖闘士たちは、心から納得してしまったのである。

「ちんけな小宇宙しか感じられないから、てっきり使い走りの小僧たちだと思っていたのに! こんなガキ共がハーデス様に盾突いたところで、蛆虫のように一瞬で踏み潰されるのが関の山だろう」
「タナトス」
金色の神が、たしなめるように 銀色の神の名を口にする。
とはいえ、金色の神が たしなめようとしたのは、アテナの聖闘士たちに対する銀色の神の無礼ではなく、彼の不適切な仮定文の方のようだった。
「例え話であったとしても、そんなことを言うのはやめろ。美しいものを何より愛するハーデス様が、その 御御足おみあしで醜い虫を踏みつけるようなことをなさるはずがない」

どう考えても、より無礼なのは、口の悪い銀色の神より、銀色の神を たしなめた金色の神の方の方である。
その自覚があるのかないのか、金色の神は 彼の言葉にむっとしているアテナの聖闘士たちの方に、その視線を巡らせてきた。
「タナトスとまとめて認識されることは、私の名誉に関わることなので名乗っておこう。私は眠りを司る神ヒュプノス。そちらは死を司る神タナトス」
「神……? 本当に神なのか? これが?」
星矢の言う“これ”が、口の悪い銀色の神を指していることは明白。
金色の神は、星矢に、薄く笑って頷いた。

「これまでのやりとりは すべて聞いていたのだろう?」
金色の神の言葉を否定しないことで、アテナの聖闘士たちがヒョプノスの言を肯定する。
天馬座の聖闘士、龍座の聖闘士、白鳥座の聖闘士たちの上に順番に視線を投げた金銀の神は、最後のセンターテーブルの脇に立っていたアンドロメダ座の聖闘士に目を留めて、腑に落ちたような顔になった。
そうしてから、金色の神が 再びアテナの方に向き直る。

「我々は、今回の聖戦に冥界消滅の可能性があるのなら、その可能性を排除したいのです。危険な戦いを避けたい。我々は叶うことなら、あなたとあなたの聖闘士たちと親睦を図りたいと思い、エリシオンを出てきたのです。そして、地上世界にあるものが汚辱だけでないことを確かめ、ハーデス様にその旨 言上して、今度の戦いをやめさせたい」
「戦いをやめさせたい?」
到底 作法にのっとっているとは言い難い盗み聞きで、アテナの聖闘士たちは、ハーデスとアテナの戦いが 神話の時代から幾度も繰り返されてきたものだという情報を得たばかりだった。
それが、気が遠くなるほどの伝統・・を有する戦いだということを。
それゆえ 意外としか言いようのないヒュプノスの言葉に、彼等は目を見張ることになったのである。
しかし、金色の神は、自分が“意外な”発言をしたとは考えていないようだった。

「そのために、これから当分の間、我々の この屋敷への出入りを許していただきたい。我々は人の世で暮らすことはできないので、こちらに居座るつもりはありません。ただ、時々 こちらに様子を見に来て、海神ポセイドンをすら退けた あなたの聖闘士たちの人となりを確かめたいのです。その中にあるのは、ハーデス様が粛清すべき傲慢と醜悪ばかりなのかどうかを」
「これまで互いの存亡をかけて戦ってきた敵である あなた方を、この家に出入り自由にしろというの」
「アテナのご意思が充満している ここでは、我々も滅多なことはできない。ごく普通の人間と同じ振舞いしか。お気付きでしょうか。我々が、この屋敷に入ってからずっと、場所の移動すら自分の足で行なっていることを」
「それだけのことでは、あなた方の言葉を信じることは難しいわね」
相変わらず その顔から微笑は消していなかったが、アテナは あくまでも慎重だった。

「ハーデスは、あなた方の行動を承知しているの」
「ハーデス様は長い眠りに就いておられた。つい十数年前から、時折 眠りから目覚めることはありましたが、まだ完全な覚醒には至っておりません。ですが、命じられる前にハーデス様の望むことを察し、そのために行動するのが我々の務め。そして、ハーデス様が冥界消滅の可能性がある戦いを望まれるはずはないと、我々は考えました――察しました」
察し・・ました――ね」

彼等は、どうやら 彼等の主神であるハーデスに無断で、ここまで出向いて来たらしい。
金色の神の その言葉を聞いて、アテナは その表情と声音に 更に慎重さを増した。
「ハーデスは、確かに冥界の存続を望むでしょう。けれど、彼が 冥界軍と聖域の親睦を望むとは考えにくいわ」
「神話の時代からの宿敵同士ですからね。アテナの お疑いは尤もなことです。しかし、冥界が消滅することになるかもしれないとなったら、話は別です」
「……」

冥界が、ハーデスにとって どれほど大事なものであるか。
それは論を待たない事実である。
天界の王ゼウス、海界の王ポセイドン、冥界の王ハーデス。
冥界があればこそ、ハーデスは、栄光あるオリュンポス12神に数えられることがなくても、大神ゼウスと肩を並べる有力な神として 皆に認められ、神々の中でも高い地位を保っていられるのだ。
しかし、彼は、冥界以上に、己れの自尊心に重きを置く神。
そんなハーデスが、冥界の保全のために、勝利より和睦を選ぶことがあるだろうか。
眠りの神への不信と言っていいアテナの慎重さは、その判断がつかないからこそ生じるものだった。

「冥界が消滅するとは限らんだろう。消滅するのはアテナとアテナの聖闘士たち、そして聖域の方かもしれん。むしろ、そっちの可能性の方が高い」
慎重に過ぎるアテナと、敵であるアテナに礼を尽くすヒュプノスのやりとりに焦れたらしいタナトスが、脇から口を挟んでくる。
金色の神は、落ち着いた口調で、再び 銀色の神をたしなめた。
「アテナとアテナの聖闘士たちの力を侮るな。これまでの聖戦でも、我が軍が常に無傷だったわけではない」
金色の眠りの神はともかく、銀色の死の神は やたらと柄が悪く、聖域 及びアテナの聖闘士たちを侮っている態度があからさまだった。
その品のなさに アテナが不快の念を表わさないのは、彼女が てんから死を司る神を無視しているから。
タナトスの言を無視して、アテナは あくまでもヒュプノス一人に尋ねた。

「あなたの提案は、聖域には迷惑なものだと言ったら」
「冥界からの非戦の申し出を、地上世界の平和と存続を望んでいるはずのアテナが拒絶したのだと解します」
「……」
冥界からの提案が受け入れられない時には戦いを始めるしかないと、ヒュプノスが暗に告げてくる。
冥界軍との戦いが始まれば、聖域もまた無傷ではいられないだろう。
どれほど小さくても 戦いを回避できる可能性があるのなら、その可能性を切り捨てるわけにはいかない――というのが、アテナの下した結論だった。


「タナトスとヒュプノスが 本心から戦いを回避しようとしているとは考えにくいのだけど、ハーデスの忌み嫌っている人間世界に滞在したいという彼等の狙いがわからないことが気になるの。私が禁じても、どうせ彼等は人間世界に来ることは できてしまうのだから、私の目の届くところにいてくれた方が監視はしやすい。彼等の真意を確かめたいわ」
結局 沙織はそう言って、金銀の神の要望を飲み、人間界にやってくる彼等と いさかいを起こさないことを、彼女の聖闘士たちに命じたのである。






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