Dreams Come True






カレンダーは3月、弥生。
日本は、いわゆる春と呼ばれる季節に突入していた。
とはいえ、そのカレンダーは つい数日前まで2月を示していたのである。
アテナの聖闘士はともかく一般人の感覚では十分に寒い季節。
まさに『暦の上でだけ春』と言っていい気温と風と空。
どう考えても本物の春が来るのは まだ先のことなのに、その日 瞬は朝から やけに明るく 楽しく 嬉しそうだった。
もともと敏捷性に優れ 動作の軽快な瞬が、気持ちが浮ついているせいか、ただ歩いているだけの動きも 子鹿が跳ねているように見える。

「なんか、おまえ、すごく浮かれてねーか? どーしたんだよ。何かあったのか?」
星矢が瞬に そう尋ねたのは、あまりに弾んでいる瞬の足取りを見て、そのうち瞬は何かに蹴躓いて転んでしまうのではないかと案じたからだった。
誰かに その訳を訊いてほしくて ぴょんぴょん跳ねていたのではないかと思えるほど 即座に、声まで弾ませて、瞬が、
「すっごく嬉しい夢を見たの!」
と、星矢に答えてくる。
その即答振りから察するに、瞬は嘘はついていない。
それが事実で、本当の答えなのだと思えるから、星矢は瞬の返答を聞いて、大いに顔をしかめることになったのである。

「夢で そんなに浮かれられんのかよ、おまえは」
「だって、すごく嬉しい夢だったんだもの」
「そこまで嬉しい夢って、どんな夢だよ」
「それは秘密」
「秘密〜 !? 」
人前で ここまで わざとらしく浮かれてみせておいて、今更 秘密も何もあるかと、星矢は思ったのである。
秘密にしなければならないようなことなら、瞬は、そもそも何かあったような素振りを仲間に見せるべきではなかったのだ――と。

「なんで秘密なんだよ。命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士の間に秘密なんかあっちゃよくないだろ!」
「だって、いい夢って、人に話すと、運が逃げていって叶わなくなるっていうじゃない。だから、叶うまで誰にも言わない」
「んなの、迷信に決まってるじゃん」
「迷信でもいいの。あ、タンポポが咲いてる。春が来たんだねー」
嬉しい夢を見て浮かれている小鹿は注意力散漫、気もそぞろ。
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間の不機嫌な顔から 窓の外に視線を移すと、瞬は 目についたタンポポの花に惹かれて、そのまま ぴょんぴょんラウンジを出ていってしまった。

「春が来たのは、おまえの頭にだろ。なんだよ、ケチ!」
たった今まで瞬の姿があった空間に向かって派手に舌打ちをしてから、星矢が不満げに口をとがらせる。
そうしてから 星矢は、ほとんど身体を投げ出すようにして、彼の傍らにあったソファに腰をおろした。
脇で二人のやりとりを聞いていた紫龍が、そんな星矢に微苦笑を向ける。
話を“秘密”で〆られてしまった星矢の不完全燃焼な気持ちは わからないでもないが、瞬は あれで自分が持ち出した話題をきちんと締めくくったつもりなのだ。
望み通りの結末を手に入れたいのなら、星矢は自分から行動を起こすしかない。

「瞬の嬉しい夢が何なのかは知らないが、叶えてやれば瞬が喜ぶだろうな」
「へ?」
瞬の嬉しい夢がどんな夢なのかも知らないのに、紫龍は なぜ急にそんなことを言い出したのか。
紫龍の発言の意図がわからず、星矢は眉をしかめて、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間その2の顔を見ることになった。
そんな星矢に、紫龍が、3月という月に どんなイベントがあるのかを知らせるための説明を始める。
「2月に瞬にチョコレートをもらっただろう。そろそろ お返しを考えなければならない時季だ」
「お返しなんて、瞬は期待してないだろ。バレンタインのチョコだって、他に女の子がいないから、瞬が代わりに配ってるだけで、義理チョコとまでは言わないけど、ただの友チョコだし」
「期待していないだろうから、逆にもらえれば喜びも ひとしおだろうと言っているんだ。おまえたちは特に、バレンタインチョコレートに限らず、日々の生活でも 瞬に世話になって面倒をかけ通しなんだからな。こういう時に感謝の意を示して、瞬の機嫌をとっておいた方がいい」

氷河が、庭に出た瞬の姿を窓越しに追っていた視線を、室内の龍座の聖闘士の上に巡らせる。
『おまえたち』という複数形での指名が、彼には不本意なものだったらしい。
彼は、紫龍に異議を唱えようとした。
「星矢はともかく、俺がいつ――」
「俺たち・・が いつ、瞬の世話になって面倒をかけたっていうんだよ!」
自分一人が瞬の世話になり面倒をかけていることにしたくなかったのか、星矢は、氷河の声に 自分の声をかぶせるようにして、紫龍に そう反問した。
問われた紫龍が、『おまえたち』の自覚のなさに 呆れた顔になる。

「世話になっていないというつもりか? 俺はちゃんと知っているぞ。星矢、おまえ、女の子同伴でないと挑戦できないルールになっている某ケーキ屋のレディース・バイキングに、いつも瞬を連れていっているだろう。しかも、そのルールを瞬に知らせずに」
「え? あ、いや、それは――」
「氷河、おまえは、おまえの無愛想を、瞬が毎日どれだけフォローしているのか知っているのか。瞬がいなかったら、おまえは今頃、人類の半分くらいを敵にまわしているところだぞ」
「何を大袈裟な」
「大袈裟なものか。星矢のだらしない生活態度と おまえの無愛想は、いつ城戸邸のメイドたちに仕事をボイコットされても不思議ではないくらいだ。星矢は、何でも物をそこいらに投げておくし、食い物は食い散らかすし――。氷河、おまえはおまえで ここのメイドたちに一度でも『ありがとう』の一言を言ったことがあるか? 彼女等の仕事全般に大仰に感謝してみせろというんじゃないぞ。だが、お茶をいれてもらったり、伝言を頼んだり 受け取ったり、そういう個別のちょっとした雑務のタイミングで、普通の人間なら『ありがとう』と言うところを、おまえは徹底して無言を通す」
「それが彼女たちの仕事だろう。沙織さんが給与の不払いをしているというのならともかく、俺が いちいち礼を言う義務はないはずだ」

『ありがとう』などという得にもならない言葉より確実なものが 彼女たちには支払われている――というのが、氷河の主張。
しかし、氷河のその主張に、紫龍は はっきり首を横に振った。
「いくらそれが彼女たちの仕事でもな、仕える相手から感謝の気持ちを示してもらえないのでは、彼女たちもモチベーションの維持が難しいだろう。だいいち、それでは気持ちよく仕事ができない。瞬は、そんなおまえたちの分も愛想を振りまいて、『ありがとう』を言い、時には彼女たちの仕事の手伝いまでしている。だから、おまえたちは彼女たちに粗雑に扱われることなく、快適な毎日を過ごせているんだ。おまえたちは、年に1度くらい、瞬に恩返しをしておいた方がいい。そういう さりげない気配りが、人間関係を円滑良好にするんだ」
「――」

瞬はともかく、メイドとの円滑な人間関係の構築など望んだことはない――という表情を、氷河は作った。
その表情の意味するところを言葉でも表そうとした氷河を、紫龍が視線で制する。
「参考までに教えておいてやるが、先月のバレンタインデーに、瞬の許には ここのメイドたち全員からチョコレートが届いている」
それは、星矢と氷河には初めて聞く事実だった。
もちろん、『おまえたち』の許には、そんなものは一つも届いていない。
厳然たる その事実を知らされた『おまえたち』は、何を置いても まず我と我が身を省みるべきだったろう。
そうせずに、
「そういうおまえはどうなんだよ」
と、挑戦的な口調で紫龍を問い質したりするから、星矢は、
「届いていないと思うのか?」
という答えを受け取り、厳しい現実を思い知ることになったのだ。

城戸邸で働いているメイドたちの年齢は、40代半ばのメイド頭を筆頭に、最も若い者でも20代半ば。
常識的に考えれば、彼女たちが城戸邸に起居するアテナの聖闘士たちに贈るバレンタインチョコは いわゆる義理チョコであって、まず本命チョコということはあり得ない。
だが、物が義理チョコであるだけに、もらえないことの意味は大きい。
それは すなわち、彼女たちが 天馬座の聖闘士と白鳥座の聖闘士に、好意を抱くどころか義理すらも感じていないということ。
義理チョコを贈らないことで、彼女たちは、彼女たちがチョコレートを贈らなかった相手に、嫌悪 もしくは無関心を示しているのだ。
星矢は、事ここに至ってやっと、事態の深刻さを自覚したようだった。

「た……確かに瞬には世話になってるかもな……。でも、瞬って何もらえれば喜ぶんだ?」
「物とは限らないぞ。要するに日頃の感謝の気持ちを伝えればいいんだ。それこそ言葉でも、行動でもいい」
「感謝の気持ちって、肩叩き券や お手伝い券を作って配るとかか?」
「どういう発想だ、それは。おまえたちのだらしない生活態度の尻拭いをさせられているんだから、気苦労はあるだろうが、それで瞬の肩が凝っているということはないだろう。おまえたちに“お手伝い”をしてもらっても、余計な仕事が増えるだけだしな」
「だよなー」
紫龍の意見は至極尤も。
『おまえは戦場以外の場所では全く役に立たない人間だ』と言われたも同然だったのだが、星矢は紫龍の発言に異議を唱えようともしなかった。

「つーか、瞬が何をもらえば喜ぶかとかじゃなくてさ、逆に 瞬って、何もらっても喜びそうじゃん。だから かえって難しいんだよ。去年なんか――」
「去年? 去年のホワイトデーに、おまえ、何かしたのか?」
星矢に そう尋ねたのは、紫龍ではなく氷河だった。
仲間の抜け駆けを責めるような その声音に、星矢が軽く肩をすくめる。
「何かしたっつーか、今 思い出したんだけどさ。去年のホワイトデー、俺は もちろん お返しなんて準備してなかったわけ。たまたま ついてたテレビで、『今日はホワイトデーです。ティファニーの今年の売れ筋は〜』とか何とか、余計なこと言うレポーターがいてさ、俺、瞬に何かやらなきゃならない気になって、そん時 食ってたポテチを1枚 瞬にやったんだよ」
「ポテチを1枚――ポテトチップスを1枚?」

星矢のホワイトデーのお返しの告白を聞いて 嫌そうな顔をしたのは、紫龍だけではなかった。
「うん。そしたら、瞬が嬉しそうに、『ありがとう』って言うからさ、俺、『こんなんで喜んじゃ駄目だろ!』って、瞬を怒鳴っちまった」
「……おまえも大概 勝手な奴だな」
ポテトチップスすらも贈らなかった氷河にだけは、そんなことを言われたくない。
思い切り氷河を睨みつけてから、星矢はポテトチップスの言い訳に取りかかった。
「だって、他に何やればいいんだよ。ティファニーの何とかかんとかってアクセサリーでも贈ればよかったのか? 瞬は、ダイヤの指輪や金の延べ棒くれてやったって喜ばねーだろ」
「それはそうだが――」

それはそうである。
星矢の言う通りだった。
ダイヤの指輪をもらっても、金の延べ棒をもらっても、高級車をもらっても、高価な服をもらっても、瞬は喜ばないだろう。
それどころか、瞬は、自分が贈ったチョコレートより高価なチョコレートを贈られても尻込みをしかねない人間だった。

そんなふうに あれこれを考えると、瞬を あれほど嬉しがらせる夢というのがどんなものなのかが気になってくる。
1枚のポテトチップスのように ごく ささやかなものなのか、あるいは、そう簡単に叶うことのない極めて特殊特別なものなのか。
それは謎である。
命をかける戦いを共に戦ってきた仲間たちでも すぐには答えに辿り着けない深い謎。

かくして、瞬の仲間たちは、本腰を入れて 瞬を鹿にするほど喜ばせた“嬉しい夢”の内容についての考察を始めることになったのだった。






【next】