その日 初めて――氷河が瞬を正面から見詰めてくる。
彼の青い瞳に 思いがけないほどの深さを見い出して、瞬の心臓は一瞬 大きく跳ね上がったのである。
氷河は、ゆっくりと、また語り始めた。
「おまえは綺麗だ。地上で最も清らかという、どこぞの神の お墨付きまである。“清らか”というのは、汚れていないということでも 罪を犯していないということでもなく――おまえのように すべての人間の罪を認め、受け入れ、それでも信じることをやめない強さのことを言うんだろう。おまえは すべての人間の罪を引き受けているから清らかで、美しいんだ」
「え……?」
どこか遠い空を旋回しているように感じられていた氷河の話が、突然 瞬の至近距離に迫ってくる。
というより、それは、ピンポイントで瞬の上に着地してきた。
瞬は ひどく慌て驚き、挙措を失ってしまったのである。
「ひょ……氷河……あの……」

「言ったら何だがな。造形的には――顔の部品の形状や配置の比率、その他もろもろ、コーカソイドの視点で見れば、おまえより俺の方がずっと顔立ちは整っているんだ。だが、俺とおまえを比べれば、大抵の人間は おまえの方が美しいと感じる。おまえと誰を比べても同じだろう。比べる相手がクレオパトラだろうが楊貴妃だろうが、アドニスだろうがナルキッソスだろうが」
こうなると、瞬には、氷河は冗談を言っているのだとしか思えなかったのである。
これだけ言葉を費やしたあげく、辿り着いた結論がそれだというのなら。
瞬は溜め息を禁じ得なかった。
何よりも、氷河の冗談を これまで真面目に聞いていた自分自身に対して。

「僕は、氷河の方が綺麗だと思うけど――」
「おまえは、おまえ以外の人間ほど 自分の姿を見慣れていないからだ。でなければ、おまえの目がおかしいんだろう」
「氷河……あのね……」 r>「個々の人間は、人類という一つの生き物を構成する細胞のようなものだ。俺も そんな細胞の一つとして、この地上世界で生きている。だが おまえはそうじゃない。おまえは、在り方が俺とは違うんだ。おまえは、人類という存在の核だ。枢要で枢軸だ。一個の細胞にすぎない俺が死んでも、人類という一つの存在は どんな支障もきたさないが、おまえが死ねば、人類という一つの存在は大きな損傷を受ける。だから、ハーデスはおまえを清らかな者として選び、自分の支配下に置こうとした。おまえの命と俺の命とでは重みが違う。おまえが倒されるということは、人類が傷付き倒れるかもしれないということ。俺が死ぬのと おまえが死ぬのとでは 死の意味 そのものが違うんだ」
だから、白鳥座の聖闘士はアンドロメダ座の聖闘士を守るために 自分の命を顧みない戦い方をしても、それは人類という一つの大きな命を守るための行動だから許される――とでも、氷河は言うのだろうか。
氷河の唱える荒唐無稽な理屈に、瞬は頭痛を覚え始めていた。

「氷河、それは論理が飛躍しすぎ。根本的に何かが間違ってるよ」
「そうとは思えんが」
「間違ってます。そういう例え方をするならね、僕だって 小さな細胞の一つだよ。自分以外の細胞一つ一つのことを、ちょっとだけ他の人より多く考えているだけの。でも、それは ただそれだけのことだし、地上の平和のために戦っている聖闘士は 誰も僕と同じだよ。人類っていう一つの命を構成している細胞の大部分が、もし自分のことしか考えていないのだとしても、そういう人たちは 自分という細胞を大切にすることで、人類っていう一つの大きな命のために貢献している。僕は氷河と同じ一つの小さな細胞で、だから、隣りにいる細胞を好きになったりもするの」

まさか、その思いまでは 氷河も否定すまい。
瞬は、そう たかをくくっていた。
だから、瞬は ショックを受けたのである。
氷河が、
「それは……おそらく、ただの錯覚、気の迷いだ」
そう、低く 呟いたことに。
「氷河……!」
氷河がそんなことを言う現実が 瞬には信じられず、氷河のそんな言葉を聞いている今この時が、瞬は つらくてならなかった。
二人の命の重みが違い、だから瞬の思いは錯覚にすぎないと言って、氷河は、氷河に対する瞬の好意を否定し、拒絶しているのだ。

「どうして そんな考え方になるの! 氷河が そんな滅茶苦茶な理屈を振りかざして、あげく命を落とすようなことがあったりしたら、僕は悲しくて悲しくて、きっと泣くよ。生きていることも つらいだけのことになる。天秤宮でのこと、氷河は、もう あんな無茶はするなって、氷河は僕を怒ったけど、でも、僕は僕が生きていくために氷河を助けたんだよ。氷河という細胞は、僕という細胞が生きていくのに必要なものだから、僕はどうしても氷河を助けたかった。氷河に生きていてほしかった。誰の命も、命は同じものだよ。僕の命と氷河の命は同じ意味と価値と重みを持ってるの。むしろ 僕にとっては、僕の命より氷河の命の方が大切なくらい。氷河、お願いだから、僕のために、氷河は氷河の命を大切にして!」

氷河の理屈は完全に間違っている。
瞬は、そんな馬鹿なことを考えている氷河を、いっそ笑い飛ばしてしまいたいくらいだった。
氷河が あまりに真剣な目をしているから、瞬は――瞬自身も真面目に、氷河に そう懇願したのである。
だというのに、氷河は 瞬の懇願を退け、あくまでも自分の考えに固執し続けた。
「命の重さは誰のものでも同じというのは、建前論だ。何の価値もない卑小な人間が、自分を守るために振りかざす、全く現実的でない理想論という名の詭弁だ。沙織さんと 名もない雑兵とでは、世界に及ぼす影響力が違うように、おまえの命と 俺の命も重みが違う」
頑として 自分の主張を譲らない氷河に、瞬は つい声を荒げてしまった。
「氷河! 氷河は僕のことを変に特別視しているみたいだけど、じゃあ、氷河は、星矢や紫龍も 氷河みたいに投げ遣りな戦い方をして死んでしまっても構わないって思ってるの !? そんなことになったら、僕や沙織さんが悲しまないとでも思ってるの !? 」
「……」

氷河の考えは完全に間違っている――と、瞬は思った。
それは、選ばれた特別な人間にだけ生きる権利があり、他の人間は 軽々しく命を落としてしまっても構わないという、危険極まりない思想である。
瞬は、断固として、その考えを否定した。
氷河も――自分の命はともかく、仲間の命までは それほど軽いものだとは思っていなかったらしく、瞬に それ以上の反論を試みようとはしなかった。
ただ無言で、その瞳だけで、『おまえの命だけが特別だ』と、氷河は瞬に訴え続けていた。

「えーと……」
ぴりぴりと緊張し、殺気立ってさえいる二人の間に、ふいに星矢の声が割り込んできたのは その時だった。






【next】