眠りは甘し。石とならば さらによし。 破壊と屈辱の続く間は、 見えぬこそ、聞こえぬこそ幸いなれ。 されば、我が眠りを覚ますな。 ああ、声ひそめて語れ。 「辛気臭い詩だな。彫刻家は失恋でもしたのか」 というのが、“神のごとき”ミケランジェロが『夜』の寓意像に添えた詩を読んだ氷河の感想だった。 イタリアはフィレンツェにあるサン・ロレンツォ教会のメディチ家霊廟。 そこには、ルネサンスが生んだ偉大な天才ミケランジェロが、メディチ家出身の法王クレメンス7世の命令で制作した『昼』『夜』『黄昏』『曙光』の4つの寓意像が置かれている。 そのうちの『夜』は、豪華王ロレンツォ・デ・メディチの息子ヌムール公ジュリアーノの墓の左を守る、苦悩に悶えているような女性像だった。 女神アテナの指示で 氷河と瞬がフィレンツェにやってきたのは、南欧イタリアでも まだ冷たい風の吹く冬の終わり。 「あなたたち、ちょっとフィレンツェに行ってきてちょうだい」 と アテナに命じられた時、氷河と瞬は、当然のことながら、その歴史ある街に何か不穏な空気が生まれているのかと、それを案じた。 そう問うた二人に、アテナは楽しそうに、だが同時に少々嘆かわしげに、 「あなたたちは、そういうことしか思いつかないの」 と呟くように言って、大きく嘆息したのである。 「戦いのことばかり気にかけている あなたたちのこと、ここのところ 戦いのない日が続いて暇を持て余しているんでしょう? 社会勉強よ。フィレンツェのルネサンス芸術に触れて、教養を深め、美に対する感性を磨き、これまでの戦いで傷付き すさんだ心を癒していらっしゃい」 「沙織さん……」 自ら望んでなったわけではなかったが、彼女の聖闘士になり、地上の平和を守るために戦えることを、今は誇りに思い、幸福かつ幸運なことだと思っている。 言ってみれば、自身に課せられた幸運な務めを果たしているにすぎない彼女の聖闘士に、アテナは何という優しさと思い遣りを示してくれるのか。 アテナの気遣いに、瞬は思わず涙ぐんでしまったのである。 もっとも、瞬の感動の涙は、 「でね、その帰りに、フィレンツェの刺繍博物館の近くにあるお店から、襟飾りを受け取ってきてほしいの。白地に白い糸で刺繍するピストイアスタイルの襟飾りなんだけど、2ヶ月前に特注しておいたものが、やっと完成したそうなの。もちろん、一針一針 人の手で縫った、世界に一つしかない貴重品。保険をかけるにしても、宅配便や郵便なんかを使って事故にでも合ったら、私も やりきれないし、手間と時間をかけて縫ってくれた刺繍師に申し訳が立たないでしょう。そこで私は、私が全幅の信頼を寄せる あなた方に、その大任を任せることにしたの」 というアテナの言葉のせいで、一瞬で蒸発してしまったが。 「要するに、俺たちに使い走りをしろと――」 「誤解しないで。私は、あくまでも あなた方の心身を癒し、教養を深めるべく――。ああ、そう、フィレンツェにはミケランジェロのピエタがあるわよ。ドゥオーモ博物館の『フィレンツェのピエタ』と アカデミア美術館の『パレストリーナのピエタ』。ルネサンスの天才が大理石に刻んだ母の愛。氷河、見てみたいでしょう」 あくまでも“お使い”は副次的な仕事にすぎず、第一の目的は 戦いに疲れたアテナの聖闘士の慰安であると、アテナは主張する。 それが嘘や詭弁だとは思わないが、完全に真実だと信じることも難しい。 アテナの本心が奈辺にあるのかが判然としないまま、結局 氷河と瞬は翌日フィレンツェに向かって聖域を発つことになったのだった。 |