いっそ“お使い”が主目的にして唯一の目的だと言ってもらえていたなら、ギリシャ聖域からイタリア フィレンツェまで余裕で日帰りもできたのだが、あくまでも“お使い”は“ついで”のことにしておきたいらしい沙織は ご丁寧にも氷河と瞬のためにフィレンツェのホテルに1週間の予約を入れてくれていた。
宿泊の予約をキャンセルし、お使いだけを済ませて聖域に帰ることもできたのだが、それをしてしまったらアテナは面目を失うことになるだろう。
アテナの面目を立てるために――その実、アテナの機嫌を損ねないために――氷河と瞬は、どうあっても1週間はフィレンツェに滞在しなければならなくなってしまったのである。
フィレンツェで1週間という長い時間を過ごすには、やはりルネサンス芸術の鑑賞やルネサンス建築巡りをするしかない。
そういう経緯で、氷河と瞬は、フィレンツェ到着の翌日から毎日、ウフィツィ美術館、アカデミア美術館、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、ヴェッキオ宮殿 等々、街中至るところにあるルネサンスの輝かしい遺跡に足を運び、フィレンツェ観光に務めることになったのである。
二人がサン・ロレンツォ教会のメディチ家霊廟にやってきたのは その一環、この外出がアテナの聖闘士の慰安旅行であるという体裁を整えるための――言うなれば、時間つぶしだった。

メディチ家霊廟見学に先駆けて、アテナが言及していた二つのピエタ――我が子の死を嘆く聖母マリア像――の鑑賞は済ませていた。
ミケランジェロのピエタといえば、何といってもローマのサン・ピエトロ寺院のピエタが有名である。
氷河と瞬も そのイメージしか持っていなかった。
何よりもまず、美しい彫刻――というイメージをしか。
しかし、『フィレンツェのピエタ』は美しさより痛ましさが先に立つ彫刻だった。
そして、『パレストリーナのピエタ』は、本当に これがサン・ピエトロ寺院のピエタを彫った彫刻家の手が彫ったものなのかと疑いたくなるほど、優美さのない悲痛なもの。
メディチ家霊廟の彫刻は、だが、それらのどれとも異なる印象を与えるものだった。
二つのピエタも メディチ家霊廟の寓意像も、どちらも死者を悼む作品という点では同じなのだが、メディチ家霊廟の寓意像が鑑賞者に与える印象は、何よりもまず暗鬱と倦怠、そして諦観――だったのだ。

ピエタと『夜』の寓意像――同じ女性像でも、氷河は“マーマ”の方に見る価値を覚えるのか、『夜』に対する彼の感想は、かなり投げ遣りな――気のないものだった。
というより、『辛気臭い詩だな。彫刻家は失恋でもしたのか』というのは、そもそも彫刻に対する感想になっていない。

「氷河……。ここは霊廟だよ。明るく元気な詩なんて刻めるはずがないでしょう」
一応 天才に敬意を表して氷河をたしなめはしたのだが、実は瞬自身もミケランジェロが『夜』に添えた その詩を、霊廟に置く彫刻にふさわしいものとは思っていなかったのである。
霊廟に置くにふさわしいものは、死者の生前の業績を称えるもの、あるいは その死を悼むものであるのが普通だろう。
だが、そこにあるのは、賛美でも悲しみでもなく、暗鬱、倦怠、諦観――。
瞬は、それらの彫刻や詩に違和感を覚えないわけにはいかなかった。

「でも……」
「でも?」
「でも、失恋の詩で、当たらずとも遠からずなのかもしれない。ミケランジェロは、豪商メディチ家のロレンツォ・デ・メディチに才能を見い出されて大成した芸術家だけど、熱烈な共和政支持者でもあったの。フィレンツェの共和政を守るために、防城司令として スペイン軍と戦った。でも、市民軍は破れ、フィレンツェには、スペインを後見にしたメディチ家が独裁者として君臨することになったんだ。大恩あるメディチ家と共和政への思いの間で、ミケランジェロは心から苦しんだんだろうね。共和政を望みながら、権力に屈し、独裁者となったメディチ家の霊廟を飾る彫刻を制作している自分自身に。これは愛するフィレンツェの共和政への叶わぬ思いを込めて刻んだ詩なのかもしれない。僕たちだって、平和を望んで戦って、でも、その平和が実現しないものだと悟ることになったら、この詩みたいな気持ちになるのかもしれないよ」

「……失って、諦めざるを得なくなり、それでも なお諦めきれないものへの恋の詩か。こんな詩に共感する日がこないことを祈るぞ」
「うん。ほんとだね。平和に失恋するなんて悲しすぎる……」
切ない気持ちでそう言って、瞬は天才の刻んだ『夜』の寓意像を再び見上げたのである。
戦いで傷付いた心を癒すためにやってきたのに、なまじ天才の作品が素晴らしすぎるせいで、天才の苦しみと嘆きが伝染してしまった――そう思いながら。
同じことを、氷河も思ったのかもしれない。
彼が急に瞬の腕を掴み、瞬の身体と視線を自分の方に向ける。
そして彼は、憂鬱な気分に負けかけていた瞬に軽快な声で告げた。
「こんな辛気臭い像より、俺を見ていた方がいい。俺は、こんな像と違って、希望でできている」
「え……」

希望でできている・・・・・アテナの聖闘士。
真顔で そう言ってのける氷河は、ミケランジェロが もしこの場にいたなら、それこそ『希望』の寓意像のモデルにしようとするだろうと思えるほど、生気に満ち、そして 端正な造形を持っている。
「うん……うん、その方がいいね!」
自信過剰を装った氷河の優しさが嬉しくなって、瞬は自然に笑顔になったのだった。


鮮やかで華やかなドレスにも 明るく軽やかなドレスにも似合いそうな、ピストイアスタイルの襟飾りの出来は素晴らしいもので、それは沙織を大いに喜ばせた。
が、沙織が その襟飾りを身に着ける機会はなかなか訪れなかったのである。
その襟飾りは、襟元や胸元がゆったりと開いたドレスに合うように作られていた。
実際、沙織は春の到来に間に合うように、その襟飾りを発注したに違いなかった。
ところが、せっかく春用の襟飾りが届いたというのに――襟飾りが沙織の手許に届いた その日から、南欧は冬に逆戻り。
春のドレスより、ストールやショール、マフラーやスカーフが必要な気候が続くことになってしまったのである。






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