その年は、例年になく春が来るのが遅かった。
聖域のあるギリシャだけでなく、ギリシャのある南欧だけでなく、欧州全体、北半球全体で。
例年なら春の花が咲き出す頃になっても花は咲かず、草や木の芽も顔を出さない。
そもそも春が来ないのだから、農園では春に蒔かなければならない農作物の種を蒔くことができず、今年の農作業にとりかかれない。
天候不順は家畜たちの体のリズムを狂わせ、長すぎる冬に凍えた牛や山羊たちは乳を出さない。
いつもならヒナギクの花が咲く時期に雪が降りさえするのだ。
これは 尋常のことではない。
特に、どの国、どの地方でも、春蒔き小麦の種を蒔けないことは 人々を不安にした。
こんな状態が あと1週間も続けば、今年は欧州でも餓死者が出るほどの惨事になるかもしれないと不吉な予言をする農学者や気象学者が現われ、これは氷河期の到来に他ならないと不安を煽る宗教家までが現われて、欧州は――否、世界は騒然となったのである。

「地球温暖化の話はどこにいったんだよ。まさか、ハーデスの怨念が地上を凍えさせてるんじゃないだろうな」
アテナ神殿に呼び出されたのは、星矢、紫龍、瞬の三人だけだった。
とはいえ、招集メンバーから氷河が外されたわけではない。
呼び出したくても、氷河は半月ほど前から――アテナの密命を見事に果たした二人の聖闘士がフィレンツェから聖域に戻ってきた翌日以降ずっと――聖域から姿を消していたのだ。
「ハーデスの怨念ということはないでしょうけど、どう考えても、この寒さは異常よ。自然なことではないわ。もし、いずれかの神がかかわっているのなら、聖域としては放っておけません」
この異常が ただの気象の問題なら、たとえ地上世界と人類の危機とはいえ、アテナも放っておくしかなかっただろう。
アテナが、この異常気象への邪神の関与の可能性を考えることになった最大の原因は、白鳥座の聖闘士が行方不明でいること――のようだった。

「この異常な寒さは、北方で信じられないほど強い寒気が生まれているせいなの。それが偏西風に乗って――いいえ、偏西風の流れを狂わせて、北半球を覆ってしまっている。この時期、そんな強い寒気が生まれる要因はどこにも見当たらないわ。自然現象にしては不自然すぎるのよ」
「氷河は 里帰りしてるのではなかったのですか」
自然現象でないなら、これは何者かによって人為的に引き起こされた事態だということになる。
アテナの懸念を先取りしすぎるほどに先取って、紫龍は彼の女神に尋ねた。
沙織が、憂鬱そうな表情で首を横に振る。

「氷河が ふらっと姿を消して連絡をよこさないのは よくあることだし、私もシベリアにでも行っているのだろうと思っていたのだけど――もしかしたら氷河は何か異変に気付いていて、でも確たる証拠があるわけでもないから、一人で原因究明に出たのかもしれない――と思うの。氷河がいなくなった直後から、この異常な寒冷化は特に激しくなっているわ。氷河は何か予兆を感じて出掛けていったのかもしれない……」
アテナがそう言うのは、彼女の記憶の中にある アテナの聖闘士たちの戦いの一つに言及しないためだったろう。
異常な寒気、行方不明の白鳥座の聖闘士。
以前にも、これと全く同じことがあったのだ。
その際、アテナの聖闘士たちが氷河を捜すために向かったのは、北欧アスガルドの地だった。

「氷河の探索と、この異常な寒さの原因を突きとめてきてほしいの。多分、その二つは同じこと――同時にしていいことだと思うわ」
星矢たちに、アテナは それ以上は何も言わなかった。
具体的な指示も、彼女が胸中に抱いている仮説――可能性にも。
アテナは言いにくかったのだろう。
氷河がまた異郷の神にでも利用され、アテナとアテナの聖闘士たちの敵として彼の仲間たちの前に現れるというのなら、いっそ笑い話で済むが、既に彼の命がないということも絶対にあり得ないことではないのだ。
何も言わないアテナに無言で頷いて、氷河の仲間たちは すぐさま行動を起こした。
北へ――まずは北欧アスガルドの地に、氷河の仲間たちは向かった。






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