19世紀以降のロシアの南下政策の最大の目的は、不凍港の獲得だった。
冬季に結氷する港をしか持たなかったロシアにとって、1年を通じて海面の凍らない港を獲得することは、国家的悲願の一つだったのである。
そんなロシアの苦悶を嘲笑うかのような東シベリアの海。
そこは、今は ただの氷原だった。
波の音も凍りついて聞こえない。
ただ風の音だけが――これほど浜に近い場所に存在するはずのない巨大な氷山にぶつかって、悲鳴のような音を、どこまでも続く砂浜――というより氷浜――に響かせている。

「何だ、あれは」
「氷のピラミッドなんか目じゃねーぞ。普通に山じゃん。こんなもの、前に来た時には――」
「氷河がいる!」
「へっ」
悲鳴じみた風の音を切り裂くように氷の浜に響いた瞬の声に、星矢と紫龍は虚を衝かれた顔になったのである。
瞬が見詰めているのは、本来なら氷原を渡る強く冷たい風に削られて その場に存在することは不可能なはずの氷の山。
氷原を成しているシベリア海を渡る風の強さ冷たさより 更に強く冷たいのだろう氷の山。
その透き通った巨大な山の中央に、確かに白鳥座の聖闘士の姿があった。

東シベリア海が作る氷原を十二宮に見立てれば、それは、かつてアテナの聖闘士たちが戦いの最中に天秤宮で見た光景に酷似していた。
だが、水瓶座の黄金聖闘士が作った氷の棺に比べれば、今 彼等の目の前にある方錐形の氷の棺は、その大きさが桁違いである。
そして、ピラミッドの形をした棺は、冷たい絶望の色をした氷河の凍気によって、刻一刻と大きさを増し、高さを増し、冷たさを増していた。
そこから生まれる凍気が、大地を、海を、大気を凍りつかせている。
今が春と呼ぶべき季節であることを考えると、その凍気が外界に及ぼしている力は驚異的、氷の山が生む凍気は、ハーデスが目論んだグレイテストエクリップスに勝るとも劣らない力を発していた。

「ピラミッドより巨大なフリージングコフィンか。どうする。ライブラの武器はここにはないぞ」
「違う。凍気の凄まじさはカミュ以上だけど、この山自体は普通に作られた氷の山だよ。フリージングコフィンみたいに凍気が内に向かって凝縮されていない。逆に、外に向かって増幅拡散している。だから、フリージングコフィンと違って世界を凍えさせているんだけど、この氷山は大きいだけで、フリージングコフィンほど硬くはないよ」
「凍気が内に向かわず、外に向かってる――か。そーいや、フリージングコフィンって、側にいても寒くなかったもんな」
「僕が融かす」
「えっ」

フリージングコフィンほど硬くはなくても、大きさはフリージングコフィンの数百倍はある。
ギザの大ピラミッドは底辺が二百数十メートル。だが、この氷の山は、どう見ても1キロを超えていた。
「おい、瞬、無理すんな。フリージングコフィンほど硬くないのなら、沙織さんに重機を準備してもらって――おわっ」
星矢が止めようとした時には既に、瞬の小宇宙は全開状態だった。
底辺が1キロ四方の氷の山が融けることで生じた蒸気が空に立ち上り、巨大な陽炎となってシベリアの空を揺らめかせている。
巨大な虹が何重にも空に架かるのを見て、星矢と紫龍は、今が昼間で、天気は快晴であることに、初めて気付くことになったのである。
底辺が1キロ四方の氷の山は、僅か10数分ほどで地上から消え失せた。
そして、巨大な氷山があった場所――星矢たちが立っている地点から数百メートル先の砂浜に氷河の姿が現われた――と思った途端に、その身体が再び周囲に氷の壁を作り始める。
「氷河っ!」
瞬は、自身の小宇宙を燃やしたまま、氷河の側に駆け寄っていった。

氷河は、凍気を生み続けている。
瞬は、その凍気を打ち消す温かい小宇宙を燃やし続けている。
温度の違う二つの小宇宙が それぞれの力を相殺し合う中、大地に――そこは既に氷原ではなくなっていた――膝をついて、瞬が氷河の身体を抱き起すと、氷河は瞬の温かさに触発されたかのように、 ゆっくりと その瞼を開けた。
「瞬……?」
それまで 彼は眠っていたのか、それとも何者かによって眠らされていたのか――。
カミュのフリージングコフィンとは違い、凍気を外に向けて放っていた氷河の身体は――意識はともかく、身体は――凍りついてはいなかった。

「生きてんのか」
氷河を抱きかかえている瞬の後ろから、星矢が 氷河の顔を覗き込む。
その言葉に答えて――というより、声に反応して、氷河は1度2度 瞬きをした。
氷河の意識は、まだ完全には覚醒しきっていないらしい。
「氷河……氷河、心配させて……!」
「いったい何があったんだ。おまえは、どこかの邪神に、この氷の山に閉じ込められていたのか」
瞬に泣かれ、紫龍に事の次第を問われ、眠っていた氷河の意識は徐々に明瞭になってきたようだった。
少なくとも、紫龍に問われたことに答えるべきか否かを迷い ためらえるほどには。

彼が答えをためらったのは、それが瞬に知らせたくないことだったからなのか、それとも星矢と紫龍に知られたくないことだったからなのか。
それでも結局、彼が事の顛末を言葉にしたのは、彼の仲間たちが今 この北の大地にいるのは、白鳥座の聖闘士のため、もしくは白鳥座の聖闘士のせいだということが、彼にわかったからだったに違いなかった。
そして、もしかしたら、いもしない邪神に濡れ衣を着せるわけにはいかないと考えたからでもあったかもしれない。

「違う。どこぞの邪神に利用されたわけじゃない」
氷河はまず、地上の平和が未知の邪神によって脅かされようとしているのではないことを、仲間たちに伝えた。
『ならばなぜ こんなことになったのか』と問うてくる星矢と紫龍の視線を、一度 正面から受けとめ、やがて 二人の視線から逃げる。
仲間たちの誰の顔を見ずに――視線をあらぬ方向に逸らして――氷河は、彼が氷の山の礎石になることになった事情を語り始めた。
星矢たちが 数分後には、『知りたくなかった』『聞きたくなかった』『むしろ、問うべきではなかった』と後悔することになる、とんでもない事情を。
氷河は、真面目に苦渋しているとしか思えない声と表情で、言ってくれたのだ。
「聖域で 瞬に好きだと告白して、振られて――あのまま 瞬の側にいたら未練がましいことをしてしまいそうだったんで、シベリアに来たんだ。瞬に振られたことがショックで、瞬は永遠に俺のものにはならないんだと思ったら、生きているのが面倒になって、そうしたら自分で自分の小宇宙が制御できなくなった」
と。

「お……おまえは何を言っている……」
「な……なんだよ、それ」
『頼むから冗談だと言ってくれ』という紫龍と星矢の切なる願いは、だが、真面目も真面目 大真面目な氷河の苦悶の表情の前に、もろく繊細なガラス細工のように砕け散った。
「あの詩の気分になったんだ。どんなに焦がれても、手に入らない。諦めなければならないことはわかっているのに、それでも どうしても諦めきれない――」

   眠りは甘し。石とならばさらによし。
   破壊と屈辱の続く間は、
   見えぬこそ、聞こえぬこそ幸いなれ。
   されば、我が眠りを覚ますな。
   ああ、声ひそめて語れ。

失意の天才が その作品に添えた詩を かすれた声で詠じ、氷河が つらそうに唇を噛む。
「死にたいと思ったわけじゃないんだ。ただ、あの詩のように――石のように眠っていたいと思っただけだ」
「だが、石にはなれなかったから、氷になったとでも言うのか、おまえは!」
「しゅ……瞬に振られた――って、ただ それだけのために、おまえは 地球を滅亡の危機に陥れたのかよ! おまえ、自分が何者なのか わかってんのか! アテナの聖闘士だぞ、アテナの聖闘士! 地上の平和と安寧を守るのが、俺たちの――」

星矢と紫龍は、氷河がしでかしたことに、腹の底から憤り、許し難いことだと思い、許されないことだと思い、言葉と力の限りを尽くして彼を非難し、糾弾したかったのである。もちろん。
彼等がそうすることができなかったのは、失恋のショックから立ち直れていない氷河が、未だ 己れの小宇宙を制御できないまま、強力な凍気を生み続けていたからだった。
瞬でなければ、氷河に触れることはおろか、氷河の半径1メートル圏内に足を踏み入れることもできそうになかったから。
そんなことをしたら、即座にペガサスとドラゴンの氷像ができあがってしまうことが 火を見るより明らかだから――だった。

「ち……違うの! 違うんだよ!」
殴りたくても側に近寄ることができないジレンマに ぎりぎりと歯ぎしりをしている星矢たちの耳に、ふいに瞬の叫び声が届けられる。
大きな声で『違う』と叫んでから、瞬の声は消え入りそうなほど小さなものに変わった。
「違うの。それは誤解だよ。あの時――氷河が僕に好きだって言ってくれた時、星矢たちが僕たちのいる方に歩いてくるのが見えたんだ。それで僕、恥ずかしくなって、逃げちゃっただけなの」
「俺たちが?」
地球滅亡の責任を負うボールが、氷河から瞬にパスされたと思う間もなく、星矢と紫龍の許に飛んでくる。
このボールを誰にパス出しすればいいのか。
その相手を見付けられず、星矢と紫龍は その場で顔を引きつらせた。

「な……なんだよ、それ。地球滅亡の危機が起こったのは俺たちのせいだっていうのか? つーか、それって、いつのことだよ。俺は氷河の恋の告白を邪魔した覚えは――」
「半月前。俺と瞬がフィレンツェから聖域に帰ってきた日だ」
「へ……」
星矢は、もちろん、氷河の恋の告白の邪魔をしようとしたことはなかった。
しかし、星矢は、たとえ地の果てまで追いかけることになっても必ず氷河と瞬を掴まえ、目一杯 説教をかましてやらなければならないと考えて、二人を捜しまわったことはあったのだ。
氷河と瞬がアテナの用で出掛けていたフィレンツェから帰ってきた、まさにその日に。

「あ……あの日は、けど、だってよ……。おまえら、俺と紫龍を置いて、二人だけでフィレンツェ観光とかしてきたんだろ。俺は当然 おまえらからフィレンツェ土産をもらえると思ってたんだ。フィレンツェまんじゅうとか、フィレンツェ・サブレとかさ。ダヴィデ像だかミスティ像だか知らねーけど、男の裸のポストカードが土産なんて非常識もいいとこじゃん。だから、俺は、あんなもん買ってきた おまえらに文句を言ってやろうと思って、それで おまえらを捜しまわってただけだ。まさか、おまえが 瞬に恋の告白してるなんて、俺は全然――」
「確か、その翌日だったな。氷河の姿が聖域から消えて、北半球を異様な寒さが覆い始めたのは……。あ、ああ、一応 言っておくが、俺は、おまえらを捜し出して説教をかましてやると息巻く星矢に、強制的に付き合わされていただけだぞ。俺は、おまえの恋の告白の邪魔をしようなんてことは、これっぽっちも……」
「紫龍、逃げる気かよ! おまえだって、男の裸を見て喜ぶ趣味はないとか何とか言ってただろ!」
「し……しかし、俺は、少なくとも、フィレンツェまんじゅうなんてものを期待しては――」

氷河の凍気が生み出すものとは別の凍気が、天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士の全身の血と心臓を凍りつかせる。
ここで『悪いのは、男の裸のポストカードだ』と言って、ダヴィデだかドナルドだかに 地球滅亡の責任を転嫁することは可能だろうか。
どう考えても、それは無理なことのような気がした。
相手は、なにしろ大理石の像に その姿を刻まれるような男。
どこぞの女神のように地上降臨を繰り返しているのでなければ 確実に、現代の地上世界に生きて存在している人間ではないのだ。

幸い、今の氷河には、彼の告白の邪魔をしてくれた仲間たちを責めることより優先させたい仕事があったらしく、彼は星矢たちに『なぜ 地球を滅亡の危機に陥れたのだ』と難詰してくることはしなかったが。
「も……もし、あの時、星矢たちが来なかったら、おまえは――」
白鳥座の聖闘士の身体を抱きかかえていた瞬の腕を解き、氷河は、今は氷の消えた大地に膝をつき、瞬に真正面から向かい合っていた。
そして、震える声で瞬に尋ねる。
氷河に問われたことに、瞬は答えなかった。
ただ、ぽっと頬を上気させ、恥ずかしそうに顔を伏せただけで。
だが、氷河には それだけで十分だったのである。
言葉ではない瞬の返事を手に入れて、氷河は その顔をぱっと明るく輝かせた。

「そうか! 恥ずかしかっただけなのか!」
途端に 氷河は生きる気力を取り戻し、同時に、己れの小宇宙の制御方法を思い出したらしい。
ほとんど飛びつくようにして瞬の身体を抱きしめた氷河の小宇宙は、もはや新たな凍気を生むことはなかった。
恋の成就に歓喜し熱狂する心が、氷河の凍気を熱し、それが ほどよく暖かい小宇宙を生む。
今、春のように暖かな小宇宙を生んでいるのは、瞬ではなく氷河だった。
氷河を中心にして円が広がるように――凄まじい速さと勢いで雪と氷が消え、露出した土に植物が芽吹き、花が咲き――春が放射線状にシベリアの大地に広がっていく。
氷河が、実は春の女神フローラの生まれ変わりだと言われても、今なら星矢たちは信じてしまいそうだった。

「これが氷河の小宇宙とは――」
まるで奇跡を見るような顔をして、紫龍が呟く。
「すげー。瞬の小宇宙より春みてーじゃん」
同じ春、同じ お花畑でも、瞬のそれと氷河のそれでは、言葉の持つ意味合いが(星矢の中では)かなり違っていたのだが、氷河の成し遂げた偉業(?)に、星矢が腹の底から感心したことに変わりはない。
氷河の頭の中にやってきた春、氷河の頭の中に広がっている お花畑が、氷河の外にあふれ出て、凍りついていたシベリアの大地と海に――おそらく北半球全域にも――春という季節を運んできたのは紛れもない事実。
その力の強大さに、星矢は素直に感心していたのである。
花が咲き、鳥が歌い、海が繰り返し波の音を浜辺に運んでくるようになったシベリアの地で、これは感心してばかりもいられない事態なのだということに、星矢は まもなく気付くことになってしまったのだが。






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