沙織さんは多忙な人で、俺の定例報告はいつも月曜日の夜11時と決まっていた。 俺が 日中に沙織さんの執務室に足を踏み入れるのは それが初めて。 人工の照明の下でしか沙織さんを見たことがなかった俺は、彼女をグラード帝国の王宮に暮らす女帝のように思っていたが、南東に向かって大きく開かれた窓から射し込む自然の陽光の中にいる彼女は、むしろ強大な力を持つ野性的な女神のように見えた。 その女神の前に、可憐なニンフが一人。 その人の姿を見て、俺は唖然とした。 沙織さんは本当に人智を超えた力を持つ神なのか。 そこにいたのは、寝ても覚めても俺の脳裏から その面影が消えてくれない人。 その可愛らしい面立ちと優しい眼差しで 俺の地球を滅亡に至らせようとしている人。 『常識で考えろ』の一言で、俺を失意のどん底に突き落としてくれた人だった。 「瞬……」 ドアの前に呆然と突っ立っている俺を見て、瞬が心を安んじたような、それでいて 苦しげな、気まずげな顔になり、最後に瞬は その瞳を潤ませ始めた。 「なぜ……。瞬、おまえ、沙織さんと知り合いだったのか?」 「……」 瞬は、顔を俯かせたまま答えない。 代わりに、王宮の女帝 改め 野生の女神が、小さく だが楽しそうな笑い声を洩らしながら、俺に頷き返してきた。 「ええ、そうよ。瞬は、好きな人ができたのだけど どうすればいいのかわからないと、私に相談にきたの。瞬の好きになった人が、もしかしたら大嘘つきの詐欺師なのかもしれないんですって。でも どうしても忘れられないとかで。相談にのってあげたいのは山々なのだけど、こういうことは私の専門外でしょう。それで、現在進行形で恋に身を焼いている人なら、瞬に適切なアドバイスを与えることができるのじゃないかと思って、あなたに来てもらったのよ」 「好きな人?」 「誰のことかしらね」 俺と沙織さんの前で俯いている瞬の頬が真っ赤に染まったのが、俺にはわかった。 瞬は、耳まで薄いピンク色に染めて――決して、顔をあげようとしない。 そんな瞬の代わりに、俺に事情を説明してくれたのは 沙織さんだった。 「あなたの見る目は確かね。瞬は もしかしたら日本でいちばん欲のない人間よ。瞬は、私のお祖父様から、あなたと同じように5億の遺贈を受けたのよ。もっとも瞬は その5億を全額、お祖父様が創設した児童就学援助のためのNPO法人に寄付してしまったのだけど。瞬にはお兄さんが一人いて、そのお兄さんにも同額が贈与されたのだけど、こっちは変な放浪癖があるせいで連絡がつかず、自分が億万長者になったことを 未だ知らないまま、問題のお金は銀行で利子を生み続けているわ。瞬は、お金に執着のないことでは折り紙つきの変人よ。あなたの理想通り」 「だ……だって、城戸のお爺様からは、これまでもずっと分不相応の援助を受けてきたのに、この上――」 瞬が 初めて少し――少しだけ顔を上げる。 そして、沙織さんに すがるような視線を向けた。 どんな表情をしていても、俺の瞬は可愛い。 「この上にも その上にも欲しがるのが、普通の真っ当な人間なのよ」 沙織さんに そう断言されて、瞬はまた その可愛らしい顔を伏せてしまったが。 「お茶の件は、私の影響よ。瞬は小さな頃から、よく この家に遊びに来ていたの。瞬はメイドではないわ。私の大切な幼馴染みで友人よ。瞬にラファエロ展の鑑賞券をあげたのも、この私」 瞬が沙織さんの幼馴染み? 瞬は、そんなことは一度も話してくれたことはないぞ。 俺は城戸の爺さんのおかげで億万長者になった男だと、瞬に知らせていたのに。 いや、もしかしたら、俺がそう言ったから、瞬は自分と沙織さんのことを俺に話さなかったのか? だが、なぜだ? 「なぜ、俺が城戸の遺産相続人と知った途端、俺から逃げようとしたんだ」 「ご……ごめんなさい。でも、僕は氷河が城戸の相続人と目されている人だから逃げようとしたんじゃないの。あの……氷河が嘘を言ってるのだと思ったの。僕に かまをかけて、探りを入れようとしているのだと――」 「探り? なんだ、それは」 「それは、あの……。城戸のお爺様の遺贈の件でお世話になった弁護士さんが、財産贈与の件を人に知られると、会ったこともない親戚が押しかけてくるかもしれないから 気をつけるようにって――。見知らぬ親戚たちに 生活を滅茶苦茶にされてしまうかもしれないから、遺贈の件は誰にも知られないようにしておいた方がいいって忠告されていたから――」 絶句。 つまり、瞬は 俺を、瞬が億万長者だということを確かめ、その金に たかろうとしている一文無しの貧乏人だと思っていた――ということか? 瞬が得た財産を狙っている詐欺師のハイエナだと? まあ、それなら、最初に会った時、俺の名を聞いた途端に 瞬が俺から逃げ出そうとした気持ちもわかるが。 「氷河が そんなんじゃないことは、一緒にいるうちに だんだん わかってきたんだけど、確かめるのが恐くて、今日まで……」 そんなんじゃないとわかっていた? なら、瞬はなぜ――。 「なら、なぜ、おまえは俺を――」 なぜ、瞬は俺を振ってくれたんだ。 『常識で考えろ』なんて、つれない言葉で。 気持ちは通じていると信じていただけに、俺が その言葉にどれだけ混乱し落ち込んだのか、瞬は わかっているのか! 俺は そう言って、瞬を責めようとしたんだ。 だが、結局、俺は そうすることはできなかった。 顔を伏せて、身の置きどころをなくしたように身体を小さくしている瞬が 可愛くて、かわいそうで。 俺が責めるまでもなく、瞬は もう十分に自分で自分を責めたあとのようだったから。 そんな瞬を庇うように、野生の女神が口を開く。 「瞬があなたのプロポーズを断ったのは……つまり、瞬は、私の弟のようなものなのよ」 「弟……?」 いったい瞬は何歳なんだ。 成人していないだろうとは思っていたが――では、沙織さんより年下ということか? それはともかく、瞬はどうして こんなにつらそうな目で俺を見るんだ。 俺が大嘘つきの詐欺師でないことは、もう沙織さんに確かめたあとなんだろう。 「察するに、瞬があなたのプロポーズを断ったのは、そもそも瞬が現時点で婚姻年齢に達していないせいもあるけれど、あなたが瞬を女の子だと信じているようだったから――のようね」 年齢の件は――確かに俺は見誤っていたんだろう。 瞬には、子供らしい軽率なところが まるでなかったから。 日本人は実年齢より幼く見えるのが常だし、歳の判別が難しいんだ。 しかし、俺が瞬を女の子だと信じているようだったから? それは何だ。 どういう理屈だ。 「確かに、最初の日は、瞬の可愛らしい顔や綺麗な目ばかり見ていたせいで気付かなかったが、三度目に会った時くらいにはもう、俺は瞬が女の子ではないことに気付いていたぞ」 「え?」 瞬が、その瞳を大きく見開いて 俺の顔を見上げてくる。 瞬は、“女の子”なんか足元にも及ばないくらい可愛い。 その上、奇跡のように澄んだ瞳の持ち主だ。 「日本では、『こんなに可愛い子が女の子のはずがない』と言うんだろう? 顔はどんな女の子より可愛いし綺麗だが、筋肉のつき方や脚力や胸元をよく見たら、華奢な男子のそれだと すぐにわかった」 「で……でも、だって、僕が女の子じゃないってわかっていたなら、どうしてプロポーズなんか……。氷河は僕に 結婚してくれって言ったよ。そんなこと、できるはずもないのに!」 瞬が、瞬らしくない強い語調で、俺に問い質してくる。 ああ、俺はきっと病気だ。 それも不治の病だ。 瞬は、怒っていても、泣いていても、何をしていても可愛い――そう見えて、そう感じる病気。 完全無欠の恋の病に、俺は罹患している。 いや、そんなことより。 俺が瞬に振られたのは、やはり日本語の問題だったのかもしれない。 というより、瞬に出会う以前に知り合った女共のせい――と言うべきか。 『一生 恋などしない』と ほぼ同義のつもりで、沙織さんに『一生 結婚などしない』と宣言したばかりだった俺は、その宣言を撤回する意図で、瞬に『結婚してくれ』という言葉を用いて求愛した。 それが少々――否、大いに――まずかったらしい。 俺は瞬を誤解させてしまったらしい。 だが、そうじゃないんだ。 俺はただ――。 「俺が そう言ったのは、いつまでも、おまえと一緒にいたいと思ったからだ」 「え……」 「それだけなんだ。俺の欲しいものは おまえだけだ。結婚という形式ではなく、いつもおまえの側にいること。おまえが俺の側にいてくれること。それが、俺のただ一つの望みだ。他に望むことは何もない」 俺はそう言うべきだったんだ。 そうすれば瞬は、少なくとも 俺がとんでもない思い違いをして瞬に求愛したんじゃないことは わかってくれていたかもしれない。 常識がないんじゃなく、常識がどうでもよくなるほど、俺が瞬を必要としているんだということを。 俺が幸せになるためには、俺の側で幸せでいてくれる瞬が必要不可欠なんだということを。 「まあ、今更あなたに常識を云々するつもりはないけど……。自分の欲しいものが何なのかがわかったら、人は既に半分以上幸福になったようなものよ。あとは、それを手に入れるために努力すればいいだけで、そのために努力するのは楽しいことでしょうし」 ああ。 俺の欲しいものは はっきりしている。 奇跡のように綺麗な目をしていて、金の話より 俺のマーマの話の方に、優しく耳を傾けてくれる人。 俺は、その人だけが欲しい。 「瞬。氷河は常識を知らないんじゃなく、ちょっと非常識なだけで、あなたのことを誤解しているようでもないようだし、氷河とのこと、少し真面目に考えてみたら?」 非常識という点では、沙織さんも相当のものだ。 二人の間に誤解がないのなら、常識や倫理など どこかに蹴飛ばしてしまえと、彼女は言っている。 幸福になるためになら、常識など無視してしまってもいいと。 さすがはグラード帝国の女帝、非常識を極めているな。 沙織さんの非常識な助言に、多分、この場にいる人間の中で最も常識を備えている瞬は、大いに戸惑っているようだった。 それはそうだろう。 俺だって、もともと常識を知らないわけじゃなく、瞬を好きになってしまったせいで常識を捨てざるを得なくなっただけなんだから。 沙織さんは、常識に囚われない人間であるだけでなく、少々 意地の悪い人間でもあるらしい。 「で? 瞬。あなたの好きな人って誰なの」 彼女は、瞬に そう尋ねて、また瞬の頬を真っ赤に染めさせた。 その様を ひとしきり楽しそうに見詰めてから、彼女は急に真顔になって、俺に思いがけないことを語り始めた。 |