薔薇の木に薔薇の花咲く






城戸邸の庭では、薔薇の蕾が開き出していた。
純白のパール・ドリフト、ピンク色のティファニー、黄色のアンバークイーン――花の女王が美しく輝く季節が始まる。
その日、ブルボン・クィーンの木で 今年 最初に開いた花を10本ほど抱えて邸内に戻ってきた瞬の足取りは、ゴムマリのように弾んでいた。

「あ、星矢、見て、見て! ブルボン・クィーンの一番花だよ。綺麗でしょう。これから次から次に綺麗な花が咲くよ。冬の剪定がとってもうまくいったみたいなんだ」
綺麗に咲いた薔薇に浮かれていた瞬は、エントランスホールに仲間の姿を認めると、転がるように その側に駆け寄っていって、ピンク色の花の束を星矢の前に差し出した。
いつもなら『おっ、綺麗に咲いたじゃん。よかったな!』くらいは言ってくれる星矢が、そんな瞬に、
「へー……こっちは散々だぜ」
と、気のない返事を返してくる。
明るく可憐な花に捧げるには ふさわしくない、陰鬱な声音。
視線と意識を花にだけ向けていた瞬は、その声を聞いて初めて、星矢が 口を への字に曲げて、これが不機嫌でなかったら何が不機嫌なのかという顔をしていることに気付いたのだった。

「星矢、どうしたの? 何かあったの?」
「どーしたも こーしたも、氷河が 繊細で気弱な俺を いじめまくってくれるせいで、立ち直れないくらい落ち込んでるんだよ」
「え……」
星矢の訴えを聞いた瞬が首をかしげることになったのは、星矢が自分に冠した『繊細で気弱』という形容のせいだった。
もしかしたら星矢は冗談を言っているのだろうかと、瞬は思ったのである。
だが、冗談を言っているにしては、星矢の表情には明るさがない。
彼は本当に、心底から憂鬱そうな表情をしていた。
瞬は星矢の発言の意図を解することができず、だが、『氷河が星矢を いじめまくっている』の部分は、最初から信じなかった。

「氷河が星矢をいじめる? そんなことあるはずないでしょう。氷河はいつもとっても優しくて親切で、仲間をいじめるようなことをしたりはしないよ。この薔薇の冬の剪定だって、寒い中 氷河が手伝ってくれて、だから こんなに綺麗に咲いたんだよ」
「氷河は寒いのなんて 全然 平気じゃん。そんなの、親切でも何でもねーぜ」
「そんな言い方……。放っておいても、氷河自身には何の不都合も生じないことを、わざわざ手伝ってくれたんだよ。氷河は、いつも親切で優しいよ」
瞬は、その件に関しては絶対の自信を抱いていた。
だから、いかなる迷いも ためらいもなく、ごく自然にきっぱりと断言した。
星矢が、仲間の親切を信じ切っている瞬を見やり、その前で 盛大に長く深い溜め息を披露する。

「そりゃあ、食えないものの世話をするなんて、ご苦労なことだとは思うけどさー」
“食えないものの世話”を趣味にしている瞬の手前もあったのだろう。
星矢は『そんなことするなんて、気が知れねーぜ』とまでは言わなかった。
だが、今は・・そう考えているのが明白な星矢の態度。
普段は、自分の価値観を最重要視するにしても、だからといって 異なる価値観によって為される他者の言動に否定的な態度を見せることのない星矢を知っているだけに、瞬は星矢の様子――今の星矢の様子――を奇異に感じたのである。

「あいつは、おまえの前では猫をかぶってんだよ。本当に親切で優しい奴が、阿呆の、馬鹿の、間抜けのって、俺を頭ごなしに怒鳴りつけるわけねーだろ。俺は何にも悪いことしてねーのに!」
氷河が親切なことを信じ切っている瞬は、星矢に悪いと思いつつも、『俺は何にも悪いことしていない』という彼の言を疑わないわけにはいかなかった。
遠慮がちに、星矢に反駁する。
「でも、氷河が僕の前で猫をかぶったって 何の得もないでしょう」
「得、いっぱい あるじゃん。おまえの前でいい子の振りしてれば、氷河は おまえに あれこれ世話を焼いてもらえるだろ」
「氷河が僕に そんなこと期待しているとは思えないけど……。氷河は、あんまり僕に世話を焼かせてくれないの。僕に いちばん世話を焼かせてくれるのは、星矢だよ」
「へっ」

決して星矢を責めるふうにではなく、むしろ 自分に世話を焼かせてくれる仲間が星矢以外にいないことを残念がっているような口調で、瞬が言う。
星矢は、一度 しゃっくりのような音を喉の奥で作ってから、自らの顔を くしゃりと歪めることになった。
星矢は、確かに、氷河や紫龍が瞬に世話を焼いてもらっている場面というものを ほとんど見たことがなかった。
逆に、自分が瞬に構われている場面なら いくらでも思い出すことができる。
星矢は 非常にきまりの悪い状況に追い込まれてしまった。
だが――それでも、事実は事実なのだ。

「けど、俺が氷河にいじめられてんのは事実だぞ」
「星矢、そんな嘘をつくと、閻魔様に舌を抜かれるよ」
「ほんとだってば! 俺がおまえに嘘ついて、何の得があるよ!」
僅か1分前に為された『瞬の前でいい子の振りをしていれば、瞬に あれこれ世話を焼いてもらえる――という得がある』という自分の発言を、星矢は綺麗さっぱり忘れているようだった。
だが、それは そのまま、星矢が そんな“得”を意識して仲間に嘘をついているのではないことの証左でもある。
その件に関しては、瞬も星矢の言葉を疑わなかった。

「それはそうだけど……」
だが、それでも――星矢が自分の“得”のために嘘をついているのではないことを認めることはできても――瞬は『氷河が星矢をいじめている』という仲間の告発だけは信じることができなかったのである。
当然、瞬は困惑の眼差しを星矢に向けることになり、星矢は星矢で、仲間に事実を事実と認めてもらえないことに合点がいかない。
彼は、どうにかして 氷河のいじめの事実を瞬に認知させるべく、その方法を模索し始めたのだった。

が。
いじめの証明というものは、存外に難しいものである。
もちろん、それは、セクハラ同様、被害者が その行為をいじめだと思えば いじめだということになるのではあるが、いじめる側の人間が『それは親愛の情からの からかいにすぎない』と言い張り、周囲の人間も その見方を支持していた場合、いじめを客観的事実として立証することは 極めて困難な作業なのだ。
立件して、加害者に罰を与えることは、なおさら 難しいことだろう。
とはいえ、困難に出会うと燃えるのがアテナの聖闘士。
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に 自分の主張を信じてもらえない現実に合点がいかなかった星矢は、自分が氷河にいじめられていることを客観的事実として瞬に認めさせることを決意した。
つまり、成し遂げることの困難な試練に出会い、星矢は むやみやたらに燃えて・・・しまった――のである。






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