星矢たちの手でアテナ神殿に運ばれ、白い骸布で全身を覆われた兄の遺体の前で、瞬は兄の最期の言葉を思い出していた。 『あんな阿呆のために』 その言葉は、不当だと思う。 少なくとも、兄が言っていい言葉ではない。 阿呆な弟の命を守るために命を投げ出した兄に、そんな言葉を言う資格があるだろうか。 「どうして僕は……いつも いつも僕は――」 兄の負担になることしかできないのか。 そして、兄はどうして 彼の不甲斐ない弟を見捨ててくれなかったのか。 答えはわかっていた。 瞬の兄はいつも、彼の枷であり 足手まといでしかない彼の弟を 愛していたのだ。 今日の戦いとて、その命を奪われようとしている者が彼の弟でなかったら、鳳凰座の聖闘士は敵の拳を我が身で受けとめるようなことはしなかったかもしれない。 もっと冷静に、敵の拳の力を減じ 自らも傷付くことのない 賢明な対処方法を採っていたかもしれない。 「阿呆はどっちなの……」 小さく呟いた途端、やっと涙が出てくる。 阿呆なのは兄の方。 愚かな弟のために命を落とした兄の方だと、瞬は思った。 そして、気付いたのである。 自分も、兄と同じように氷河を守ろうとしたのだったということに。 兄がそうできたように、敵の拳の力を減じ 自らも傷付くことのない賢明な戦い方は、自分にもできた。 だが、兄と同じように、自分には そうすることができなかった。 なぜ そんなことになったのか。 兄は弟を愛していたから。 では、アンドロメダ座の聖闘士は? そう考えることによって やっと、瞬は理解した。 自分が、地上の平和を守るためにではなく、氷河の命を守るために、我が身を 敵の拳の前に投げ出そうとしたのだということを。 そして、やっと自分の罪に気付いた。 兄の最期の言葉。 兄は、氷河のことを指して そう言ったのだったろう。 だが、それは瞬のことであり、瞬の兄のことでもある。 アンドロメダ座の聖闘士と鳳凰座の聖闘士は、揃いも揃って 救いようのない“阿呆”なのだ。 自分の罪を自覚した瞬は、その足でアテナの許に向かった。 そして、アテナに告げたのである。 自分はアテナの聖闘士にあるまじき戦い方をした。 そのために、兄であり、アテナの聖闘士でもある鳳凰座の聖闘士の命は失われることになった。 その罪を贖うために、同じ過ちを繰り返さないために、兄の死に懸けて、自分は 二度と氷河に会わない――と。 その場にいた瞬の仲間たちが『なぜ氷河なのか』と瞬に問うてこなかったのは、彼等がアンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士のことに薄々気付いていたからだったろう。 そういったことには触れず、彼等はただ 瞬の決意に驚き呆れ、そして瞬を思いとどまらせようとした。 「あのさ、んなことして、一輝が喜ぶと思ってんのか」 瞬の兄は そんな狭量な男ではないと、星矢は信じている。 だからこそ、彼の口からは 自然に そんな言葉が出てくるのだ。 同じことを、瞬も信じていた。 だが、今の瞬は星矢の言を素直に受け入れることはできなかったのである。 「喜ぶよ。兄さんは、僕が氷河を……好きでいることに気付いてて、嫌がってたもの」 「一輝は喜ばないと思うぞ。奴の願いは いつも、おまえが幸福でいることだった」 星矢同様 紫龍も、瞬の兄がどういう男だったのかを わかってくれている。 だが、彼等の告げる言葉は、今の瞬には つらいばかりだった。 「だから……だから、僕は幸福にならないことに決めたの。兄さんがいないのに、僕だけ幸せになって何になるっていうの……!」 仲間たちの慰撫と忠告は、正しい ものの見方と正しい判断力に基づいて為されている。 それに対して、自分の決意は 感情によって作られたもの。 それは瞬にも わかっていた。 しかし、人間というものは感情でできている生き物、感情に従って行動する生き物なのだ。 誰もが常に感情に従って生きているわけではないだろうが、感情は人間の行動の方向を決める重要な要素で、それに逆らうことは、大きな苦しみを その人間にもたらす。 涙ながらに訴える瞬を 痛ましげに見詰め、だが、紫龍は首を横に振った。 「こんなことになって、おまえの気が動転するのは わかるが、冷静になれ。一時の感情に流されて 衝動的に そんなことを言うんじゃない。神への誓いは神聖なものだぞ。あとで間違いに気付いても、だからといって すぐに撤回するわけにはいかない」 「だいいち、氷河に会わないって、どうやって会わずにいるんだよ。おまえ、アテナの聖闘士でいることをやめるつもりか? 一緒に戦ってたら、どうしたって会うことになるだろ」 紫龍と星矢が物心両面から瞬の無謀を諌めてくる。 だが、瞬は 彼等に説得されてしまうつもりはなかった。 彼等は正しい。 けれど、人は常に正しいものに従うとは限らない――従えないこともあるのだ。 「聖域の外に出る。どうせ敵はアテナの結界に阻まれて、聖域に入り込むことはできないんだから、大抵の戦闘は聖域の外で行なわれることになる。自分の宮を持っている黄金聖闘士以外の聖闘士は、聖域という場所にこだわる必要はないでしょう。地上の平和を乱そうとする神や その神に従う人たちは、この世界の至るところに現れるんだから、僕はどこにいたって、一人でだって、アテナの聖闘士として戦うことができるもの。兄さんは そうしてたもの」 「んな無茶なこと言うなよ。一輝が あちこちをふらふらしてられたのは、おまえっていう帰る場所があったからだろ。おまえが今 一人で ふらふら外に出てっても、帰るところはないぞ。今のおまえは、氷河だけじゃなく、俺たちや――アテナをさえ見ようとしてない」 「櫂のない小舟で海に漕ぎ出すようなものだ。帰れなくなる」 「でも、僕は そうでもしないと生きていられそうにないの。悲しくて苦しくて……。兄さんが戦って死んだのなら、耐えられる。兄さんはアテナの聖闘士として為すべきことを為して死んでいったのだと、誇りに思うこともできる。でも、事実はそうじゃない。兄さんは 僕を庇って死んだんだ」 仲間たちの言葉が正しければ正しいほど 従うことができず、優しければ優しいほど つらさが増す。 今 瞬が求めているのは、正しさや優しさではなかった。 今 瞬が欲しているのは、それらとは真逆のものだったのだ。 「わかりました」 それまで無言で 瞬と瞬の仲間たちのやりとりを聞いていたアナテが その沈黙を破ったのは、兄を失った瞬よりも、その瞬に――命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間である瞬に――徹底的に拒まれている星矢と紫龍の悲惨な姿を見兼ねてのことだったかもしれない。 アテナは、彼女の聖闘士たちに比べれば はるかに冷静な声で 聖闘士たちのやりとりを終わらせ、そして、兄を失い 正しい判断力をも失っている瞬に告げた。 「瞬。あなたの望みはわかりました。でも、今 あなたに聖域を出ていかれるのは困るわ。一輝を失い、あなたにまで そんなことを許してしまったら、私は私の聖闘士を一度に三人も失うことになりかねない」 アテナが失うことになる三人目の聖闘士とは、アテナ神殿の玉座の間の扉の脇に、仲間たちから離れて立っている白鳥座の聖闘士のことだろう。 いずれ――今から そう遠くない未来に、神話の時代からアテナとの聖戦を繰り返してきた冥府の王が目覚め、この時代の聖戦が始まる。 地上世界と人類の存亡をかけた大きな戦いを控えている今、聖域の戦力を減らすわけにはいかない。 アテナは、彼女の聖闘士だけでなく、聖域だけでなく、“世界”に目を向け、そのために最善のことを考えなければならない。 アテナが その肩に担っているものの大きさ重さは、瞬もわかっているつもりだった。 わかっているのに――アテナに そう言われても、瞬は自らの心を正すことができなかったのである。 実際に、弟を庇って兄は死んだのだ。 兄のために――瞬は、これまでと同じように 仲間たちと光の中で戦い続けることはできそうになかった。 「たとえ アテナのお言葉でも、僕は――」 この聖域と、聖域に集う聖闘士たち、そして、この地上世界を守るアテナに逆らう。 そんなことができる自分は既にアテナの聖闘士としての資格を失っているのかもしれない。 仲間とアテナ、生きる目的と戦う目的。 それらのものを、今 自分は 自分から捨てようとしている。 それも、兄を失った悲しみのためにではなく、兄を死なせた罪の意識に負けて。 自分は今、正気ではない。 その事実を、瞬は ほぼ確信していた。 そんな瞬に、アテナが思いがけない言葉を告げてくる。 「私は、これ以上 私の聖闘士を失うわけにはいきません。だから、あなたの望みを叶えてあげましょう。あなたの目に、氷河の姿が映らないようにしてあげます」 「え……?」 「あなたの目が氷河の姿を見ることができなくなるようにするわ」 「アテナ……何を言って……」 「目の前に氷河がいても、あなたの目と意識がそれを知覚・認識しなければ、会っていないのと同じことでしょう? それで、あなたの誓いは間違いなく成就できるわ。あなたの望む贖罪にもなるでしょう」 「アテナ――」 「たった今から、あなたは、光の中では氷河の姿を見ることはできない。声を聞くこともできない。小宇宙を感じ取ることもできない。どう?」 瞬の視界に入らないように、仲間たちから離れ、仲間たちの後方に立っていた氷河の小宇宙が、ふいに感じ取れなくなる。 瞬が、恐る恐る後ろを――そこに氷河がいるはずの場所を――振り返ると、たった今まで そこにいたはずの氷河の姿が消えていた。 氷河のいない空間を呆然と見詰める瞬の肩の上を、恐ろしいほど冷静なアテナの声が通りすぎていく。 「あなたは不幸になりたいのでしょう? 不幸になることで、自分の罪の埋め合わせをしようとしたいのよね? だったら、物理的な距離を置くより、側にいるのに 氷河の存在に気付くことができない方が、より苦しみが増すと思うわよ。こんなやり方は私の好みではないけれど、あなたが少しでも あなたの罪悪感から逃れられるように、星矢たちが これ以上仲間を失わずに済むように――今は こうするしかないようね」 「アテナ……」 彼女の聖闘士が間違った道を選ぼうとしているというのに、その過ちを正すことができない。 それは、アテナにとって非常に不本意なことであるに違いない。 それでもアテナの意に従えない己れの感情の頑なが、瞬は つらく苦しく悲しかった。 |