そうして、瞬の世界から氷河の存在は消え去った。
氷河は すぐ側にいるのかもしれない。
アンドロメダ座の聖闘士を見詰めているのかもしれない。
けれど、アンドロメダ座の聖闘士は、彼の存在にも、その視線にも気付かない――気付けない。
『俺は おまえが好きだ』
アンドロメダ座の聖闘士に そう告げてくれた氷河の声をすら、瞬は もう二度と聞くことはできないのだ。
自ら望んだことなのに、氷河のいない世界は、瞬の胸に恐ろしいほどの虚無と喪失感を運んできた。
そして、氷河のいない世界で気付く。

氷河は、アンドロメダ座の聖闘士を好きだと言ってくれた。
その瞬に 己れの存在を気付いてもらえない氷河も、『二度と氷河に会わない』という誓いを立てた者同様 不幸になっているのではないか。
その可能性は決して小さなものではない。
むしろ、そうではないことの方が考えにくい。
実際に氷河のいない世界の住人になるまで、瞬はその可能性――現実のものとならない可能性がない可能性――に気付かずにいた。
自分の悲しみと罪の意識に耐えることに精一杯で。
その悲しみと罪の意識に折り合いをつけ、自分が生き続ける道を探すことに手一杯で。

氷河までを苦しめるつもりはなかった。
だが、瞬が自身の不幸を望むということは そういうことだった。
人が不幸になりたいと願うということは、そういうことだったのだ。
氷河に謝りたいと、瞬は思ったのである。
だが、それは もはや叶わぬことだった。

誰も、氷河の存在について瞬に教えてくれない。
氷河が今 何をしているのか、どこにいるのか。
彼は今、つらそうにしているのか、少しでも笑ってくれているのか。
瞬の前で、白鳥座の聖闘士の名を口にする者は誰もいなかった――いなくなった。
“兄の死に懸けて”神への誓いを誓った瞬のために。
そうして、氷河は、瞬の世界から完全に消えることになったのである。

『森の中で木が倒れた。その音を聞く者が誰もいないとき、その音は存在するといえるのか』
氷河のいない世界で、瞬は、そんな命題を思い出したのである。
それは論理学の問題だったか、哲学上の問題だったか。
あるいは それは物理学の問題として考えるべきことなのだろうか。
瞬の世界の外に、確かに氷河はいるはず。
だが、瞬の世界に氷河は存在しない。
氷河は、瞬にとっては存在しないものなのだ。
瞬の主観では、瞬の知らない森で倒れた木の音は存在しない。
だが、瞬には その音を想像することはできる。
その音を想像することは ひどく悲しい。
悲しい その音は、本当に存在しないものなのだろうか――。

そんなことを考えながら、瞬は、望み通りの苦しみを手に入れた――望んでいた不幸を手に入れた。
そして、不幸になった瞬の心は、瞬の望み通り、安らぎと言っていいものを感じることができるようになったのである。
これで、愚かな弟のために その命を落とすことになった兄への申し訳が立つ。
少し心身が楽になった――ような気がした。
罪を償うという行為は、もしかしたら その被害者ではなく加害者のためにあるものなのかもしれない。
自重気味に、瞬は そう思ったのである。
だが、不幸によって作られた瞬の安息は、長くは続かなかった。






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