瞬は、氷河と共に戦うことができない。 もしかしたら、氷河は瞬のすぐ側にいて 共に戦っているのかもしれなかったが、瞬にはその存在を知覚・認識することができない。 これまでいつも そうしてきたように、戦いの中で互いを庇い守ることもできない。 それは、仲間と共に戦うことに慣れた瞬には、途轍もない苦痛だった。 苦しくて悲しくて、自分は自分自身だけでなく氷河をも苦しめ悲しませているのだ――と思わざるを得ないことは、瞬を不幸にした。 自ら望んだ不幸。 その不幸の中で、だが、瞬は幸福だったのである――そのはずだった。 氷河をも苦しませていることは不本意極まりないことだったが、自身が苦しみ悲しむことで 兄への罪を償っている自分を実感することができているのだから。 望んでいた通りの不幸。 望んでいた通りの不幸による贖罪。 自らの望みが叶っている状況を、人は“幸福”と呼ぶ。 その望みが叶っているから、罪の意識に押しつぶされることなく、自分は生きていられる。 罪を犯した人間には、これは過分といっていいほどの幸福ではないか。 瞬は そう思い、自身に そう言い聞かせもした――言い聞かせ続けた。 だが、氷河の存在を知覚・認識できない状態は、やがて瞬に別の苦しみを運んできたのである。 否、それは苦しみというより、猜疑だったかもしれない。 自分は、自分を不幸にすることで 氷河をも苦しめている。 そう思っていられるうちは、瞬は望み通りに不幸だったが、望み通りに幸福でもあった。 まだ心穏やかでいられた。 氷河の存在を知覚・認識できない状況が一ヶ月、そして、二ヶ月。 時間が経つにつれ、瞬の中に、ある疑いが生まれてきたのである。 それは、氷河はもう自分を見てくれていないのではないか、彼は 他の誰かを好きになってしまっているのではないか――という疑いだった。 氷河が いつまでもアンドロメダ座の聖闘士を思い続けているという保証はないのだ。 彼には、その義務もない。 氷河を、氷河に何の相談もなく 自分の世界から追い出してしまった身勝手な人間が、氷河に思われ続けていることの方がおかしい。 その疑いが胸中に生まれてから、瞬の心は落ち着かなくなった。 氷河は今 どうしているのか。 そんなことは、誰にも訊くことはできない。 訊いても、誰も教えてくれないだろう。 自分の世界から氷河を消し去ることを望んだ瞬のために、瞬の心の安寧を守ろうと気遣って。 氷河がもし、一方的に彼を切り捨てた恋人を忘れてしまっていたなら、なおさら誰も瞬に その事実を教えてはくれないだろう。 瞬のために――忘れられてしまった哀れな恋人である瞬の心を気遣って。 氷河が彼の身勝手な恋人のことを忘れたとしても――あるいは憎んでいたとしても、構わない。 それはある意味では、自然で当然の成り行きだと思う。 そうなっても仕方のないようなことを、自分は氷河にしたのだ。 自分の悲しみと苦しみに手一杯で、氷河の気持ちを考えなかった――氷河の幸福を望まなかった。 忘れられ憎まれて当然だと思う。 だが――。 だが、苦しいのだ。 氷河に会えないことが、氷河の姿を見られないことが、その存在を認められないことが、苦しくてならない。 せめて事実を知りたい。 氷河が今もアンドロメダ座の聖闘士を思っているのか、忘れてしまったのか。 氷河が今も不幸でいるのか、それとも幸福になるための新しい道を見付けてくれたのか。 知りたい。 瞬はただ、その事実が知りたかった。 今の氷河の心が わからないことが、瞬は恐ろしく、不安でならなかった。 悲しみや苦しみには果てがあるが、不安と猜疑には果てがない。 その果てのないもののせいで、瞬は、不吉な無限の薄闇に囚われ始めていた。 自分を不幸にすることで楽になれたと思ったのも束の間、瞬の苦しみは一層 増すことになったのである。 「氷河……氷河……」 太陽が中天にある時刻、アテナ神殿の前に立ち、瞬は、自分でも驚くほど頼りない響きを持つ声で氷河の名を呼んでみた。 もちろん、どこからも答えは返ってこない。 氷河が その声の聞こえる場所にいるとは限らないし、もし いたとしても、そもそも彼を自分の世界から追い出した人間の声が 氷河に聞こえるのかどうかもわからない。 『森の中で木が倒れた。その音を聞く者が誰もいないとき、その音は存在するといえるのか』 氷河に聞こえているのかどうか わからない声は、『存在する』と言えるのか――。 『兄の死に懸けて、二度と氷河に会わない』 自分は何という誓いを立ててしまったのだろう。 否、かつては神への誓いだったかもしれないそれは、今では恐るべき呪いに変じてしまっていた。 罪を償おうとして、そうすることによって己れの心を守ろうとして――自分が 底のない闇の中に自らの身体と心を封じ込めてしまったことに、今になって瞬は気付いた。 |