以前なら考えられないことではあったが――瞬は、闇を好むようになっていた。
月も星もない夜、灯りをつけず、真の闇の中に我が身を置く時、ごく僅かではあるが、瞬の心は自分が氷河のいない世界にいることに 慰められたのである。
この闇の中では何も見ることはできない。
輝かしい知恵と戦いの女神アテナの姿も、明るく屈託のない太陽のような星矢の姿も、どこまでも澄んだ清流のような紫龍の姿も。
闇の中で氷河の姿が見えないのは、愚かな誓いのせいではない。
そう思えることが、ほんの少しだけ――羽毛一枚分ほど――瞬の心を軽くしたのである。
自分の宮を持たない聖闘士に与えられた教皇殿の奥の小部屋で どれほど心地よい風が吹く夜にも窓を閉め切り、闇の中で目を凝らして、自分の目に闇以外の何も見えないことを確かめ、孤独な心を慰める――。
それが、瞬の日課になっていた。

そんな安らぎの闇の中で――ある夜、瞬は不思議な気配を感じた。
「誰っ」
それは人の気配だった。
人の気配だということしか わからない。
瞬の誰何すいかに、その気配は答えを返してこなかった。
「氷河……?」
重ねて瞬が そう問うたのは、その気配が その名を冠する人のものであればいいと思ったから。
それが氷河の気配だと感じたからでも 確信したからでもなかった。

その気配は肉体を持っていた。
両の腕が、瞬の肩を抱きしめてくる。
アンドロメダ座の聖闘士に こんなことをするのは氷河しかいない。
そう瞬は思った。
“思った”だけで、わかったわけではなかったが。

こんなことなら、氷河に『好きだ』と言われた時、馬鹿な羞恥に囚われて答えを ためらったりするのではなかった。
あの時 すぐに『僕も』と答えて氷河に抱きしめてもらっていれば、今 この闇の中で自分を抱きしめている人が氷河かどうかわかったのに――。
瞬は闇の中で、かつての自分の煮え切らない態度を悔やんだのである。
悔やんで、我にかえった。

そして、もし この人が氷河なら、自分は この人の抱擁から逃れなければならないのだということを思い出す。
瞬は、闇の中にある その人の腕を振り払った。
兄の死に懸けて誓った誓いを守るために。
瞬は、確かに その腕を振り払った。
そうするのが自分の義務だから、義務を果たした――望んで そうしたわけではない。
しかし、瞬が振り払ったはずの腕は、瞬を抱きしめ続けることを諦めようとせず、再び瞬を その腕と胸の中に閉じ込めてしまった。
そうされて瞬は、この人が氷河以外の誰であり得るのだろうと思ったのである。
アンドロメダ座の聖闘士を抱きしめたいと思ってくれる人を、瞬は氷河の他に知らなかった。

「氷河……なの?」
「――」
彼が答えないのは、彼が氷河だからなのか、氷河ではないからなのか。
瞬は、判断に迷った。
『氷河であってくれ』と願いながら。
氷河であるなら、この腕から逃げなければならない。
そう考えることはできるのに、瞬の心は 彼が氷河であってほしいと願っていた。

アテナは、『あなたは、光の中では氷河の姿を見ることはできない。声を聞くこともできない。小宇宙を感じ取ることもできない』と言っていた。
闇の中でなら、それは可能なのか。
闇の中でなら、誓いは無効で、氷河と共にあることが許されるのか。
それは卑劣な詭弁だと思うのに、その詭弁に すがりたくてならない。
すがってはならないと思うのに、すがりたくて仕様がない。
戸惑いと迷いの中で、瞬は その腕を もう一度振り払うことができずにいた。

まるで闇の中でも目が見えているかのように、氷河であってほしい その人が 瞬の身体を寝台に横たえる。
闇の中で、その手が瞬の髪を撫で、頬に触れ、唇の上で止まる。
「あ……」
瞬が小さな声を洩らすと、氷河のものであってほしい その指は、瞬の声に触れて その声の感触を確かめようとするかのように、瞬の唇の上で、だが唇には触れず、ゆらゆらと揺れて、瞬を焦らすような(あるいは ためらうような)素振りを見せた。
微かな空気の振動が、瞬にその動きを感じさせる。
彼は どうして さっさと自分を抱きしめてしまわないのか。
氷河なら そうするはず――そうしてくれるはずなのに。
あるいは、氷河だから、アンドロメダ座の聖闘士に誓いを破らせるべきではないと考えて、彼は ためらっているのか。
それとも――。

それとも、やはり彼は氷河ではないのか。
その考えが脳裏をかすめた瞬間、瞬の身体は一度 大きく震え、強張った。
真の闇の中で、瞬は彼の姿を確かめることができない。
声を聞くこともできず、小宇宙を感じ取ることもできない。
瞬には、そこに誰かがいることがわかるだけだった。
この人が、もし氷河でなかったら。
その疑いは、瞬の背筋を凍りつかせたのである。
もし この人が氷河でなかったら――。
「氷河……氷河だよね? お願い。そうだと言って。でないと、僕……」

氷河でない人を抱きしめ 抱きしめられるなど、考えただけでも ぞっとする。
そんな気持ちの悪い・・・・・・ことはできない。
そんなことをしてしまったら、自分は傷付き、不幸になるだろう。
自分が愛し、自分を愛してくれている人と信じて 身を委ねた その後で、実は それが全くの別人だったと知らされたりしたら、自分に生きて存在する価値があると思うことができなくなる。
こんな滑稽な悲劇、こんな不幸な喜劇があるだろうか。

だから、氷河だと言って。そうでないなら、今すぐ僕の前から消えてほしい――。
千々に乱れる瞬の心を知ってか知らずか、氷河であってほしい人の唇が、瞬の唇に触れ、そのまま 瞬の首筋を辿り、胸元に下りてくる。
瞬の肌は、その感触を喜べばいいのか 嫌悪すべきなのかの判断に迷い、どんな反応も示すことができずにいた。
この人は氷河なのか、氷河ではないのか。
もし 氷河でなかったら、自分は 望まぬ不幸を 我と我が身に招こうとしている――。

身体だけでなく 感情や思考までが強張り、瞬は自分を自分の思う通りに動かすことができずにいた。
柔軟性を欠いた堂々巡りのような思考を続けていた瞬は、そして、ふと気付いたのである。
自分は不幸になりたかったのではないか。
自分を不幸にすることで、兄を死なせた罪を償おうとしていたのではなかったのか。
もし この人が氷河でなく、氷河でない人を氷河と信じて 我が身を委ねたなら、自分は これ以上ないほどの不幸を手に入れることができるだろう。
だというのに、自分は 不幸を選り好みしている。
そんな不幸は 自分の望む不幸ではないと感じ、考え、拒もうとしている。
こんな身勝手な贖罪があるものだろうか。
「放してっ」
自分の中にある矛盾と傲慢と我儘に気付き、瞬は その人の身体を押し戻そうとした――実際に押し戻した。
途端に、その人の気配が消える。

(え……?)
瞬が明確な拒絶の言葉を口にした途端、固執する素振りも 食い下がる様子も見せず、即座に消えてしまった その気配。
あまりに素早く、あまりに簡単に、その気配が消えてしまったことに、瞬は暗闇の中で呆然としてしまったのである。
ごく短い間。
氷河ではない人に身を任せるという最悪の事態――望まぬ不幸――は免れることができたというのに、すぐに瞬の心は別の不安に囚われることになった。
あれが本当に氷河だったなら――せっかく氷河が 彼を拒んだ愚かな人間の許にやってきてくれたというのに、自分は再び彼を拒絶したことになる。
たとえ氷河が、一度は彼を拒んだ恋人を まだ愛してくれていたのだとしても、二度まで拒絶されて、彼が その心を変えないということがあるだろうか。
氷河は、今度こそ、彼の つれない恋人を憎み、諦め、忘れようとするのではないか――。
瞬の不安は、誰のものなのか わからない気配に触れたことで、以前より一層 大きく重く深いものになってしまったのだった。

「氷河……氷河……」
氷河でないなら嫌だと思っただけで、もし氷河なら そんなふうには思わなかった。
もし氷河なら抱きしめてほしい。
もし氷河なら、もう一度会いにきてほしい。
氷河に嫌われてしまいたくない。
氷河に忘れられてしまいたくない。
もう一度会いたい。
会いにきてほしい――。
氷河のいない世界を望んだのは、他ならぬ瞬自身だったというのに、今 瞬が望むことは それだけだった。
“もう一度、会いに来てほしい”。






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