瞬は、踵を返した。
今 下りてきたばかりの石段を勢いよく駆け上り、教皇殿を過ぎ、更に その上にあるアテナ神殿に向かう。
星矢と紫龍は、アテナへの瞬の誓いをはばかって、瞬に事実を教えることはできないだろう。
訊けるのはアテナしかいない――事実を瞬に教えてくれるのはアテナしかいないのだ。
「氷河はどこです !? 氷河は今どこにいるの! 氷河は生きているのっ!」

アテナは玉座の間にいた。
女神の玉座に力なく身体を預け、まるで この世界に生きて存在することの苦難に耐えているかのように、彼女は沈鬱な表情を虚空に向けていた。
神への礼を失した瞬の来訪と 怒声といっていいような大きな声を責めるでもなく、ただ疲れたような眼差しを瞬に向けてくる。
「氷河は……今頃は冥界で――まったく早まったことをしてくれたものだわ」
「冥界……? じゃ……じゃあ、氷河が死んだというのは本当のことなの……?」

アテナの そんな様子を見るのは、瞬は これが初めてだった。
瞬が知る限り、アテナは常に生気と活力に満ちていて、笑い怒ることはあっても、その頬に涙を流すことはあっても、対峙する人間に 力ない印象を与えることはなかった。
特段の表情もなく黙して何事かを考えている時にも、彼女からは 常に力が感じられていた。
その彼女が、対峙する者に これほど力を感じさせないのは、彼女の聖闘士の命が失われたばかりだからなのだろうか――?

それでも彼女は、瞬と向き合うことで、何らかの力を自身の中に生むことができたらしい。
彼女の聖闘士が命を失った原因が――少なくとも遠因は――アンドロメダ座の聖闘士にあったのだろうか。
アテナが彼女の中に力を取り戻した僅かばかりの力は、瞬を責めるために奮い起こされたもののようだった。
「知ってどうするの。あなたにとって、氷河は存在しない人でしょう。あなたは、あなたの世界から氷河を追い払い消し去った」
「アテナ……」
アテナがアンドロメダ座の聖闘士を責めることは正しい。
それは、これ以上ないほど正当な行為である。
今の瞬には、それがわかっていた。

「僕は逃げるべきじゃなかった。僕は――」
瞬は、兄の死から、兄を死なせたものから、逃げようとしたのだ。
自分の軽率、自分に そう振舞わせたもの、その行動がもたらした悪夢のような現実。
すべてのことから目を逸らし、耳をふさぎ、苦しみの元凶を真正面から見詰めることをしなかった。
自分を苦しめ 不幸になることで、『僕は罪を償っている』と自らをごまかし 納得させ、現実を見詰める苦しみから、自分の罪から、逃れようとした。
それが卑劣な逃避でなくて何だというのだろう。
兄を死なせた弟は、鳳凰座の聖闘士の命を奪ったアンドロメダ座の聖闘士は、恐れることなく現実を見、受けとめ、その責任をとるべきだったのに。

「そう。あなたは逃げるべきではなかった……。でも、気付くのが遅すぎたわね。あなたの臆病と逃避が、更なる不幸を招いたのよ」
「アテナ……!」
アテナは常に厳しく冷静な女神だった。
そして、その厳しさと冷静は、いつ いかなる時にも深く大きな慈愛を伴っていた。
そのアテナが、ここまで はっきりとアンドロメダ座の聖闘士の罪を断じる。
では、本当に氷河は死んでしまったのか。
アンドロメダ座の聖闘士のせいで死んでしまったのか。
どうして そんなことが起こり得たのか。
なぜ そんなことになったのか――。

瞬には何もわからなかった。
ただ、それが自分のせいだということだけはわかる。
自分の卑劣な弱さが すべての元凶なのだということだけはわかる。
瞬の瞳には涙が盛り上がってきた。
『今更 泣いても遅い。その涙には 何の意味も力もない。死んだ者は生き返ってこない』
言葉にすることはなかったが、瞬に注がれるアテナの眼差しは そう言っていた。
アテナらしくなく、ただ冷やかに。

本当に それはアテナらしくない振舞いだった。
たとえ取り返しのつかない罪を犯した者に対してでも、その罪を一方的に ただ罪を責めるような行為は、全くアテナらしくない。
罪は責めるもの。
しかるのち、許すもの。
それが、これまでのアテナの“罪”に対する立ち位置だった。

そのアテナらしくない冷徹が“振り”だったことに瞬が気付いたのは、瞬の瞳に盛り上がってきていた涙が ついに溢れ出て、その最初の一粒がアテナ神殿の大理石の床に落ちた時。
彼女が それ以上“振り”を続けていられなくなったからなのか、あるいは『お仕置きはこれで十分』と判断したからだったのか。
瞬の涙がアテナ神殿の床に小さなしみを作るのを認めると、アテナ その冷たい表情を ふいに消し去った。
そして、困ったような苦笑を作る。

「氷河は、今朝方、冥界に向かったそうよ。よりにもよって、私の宿敵に頼みごとをするために。いったい昨夜、彼に何があったのかは知らないけど――」
一度 言葉を途切らせて、アテナは瞬時 意味ありげな視線を瞬の上に投げてきた。
その一瞥に 瞬が反応を示す前に、アテナが続く言葉を口にする。
「あなたを取り戻すには 一輝を生き返らせるしかないと、氷河は そう言って冥界に向かったんですって。彼が本当に取り戻したいのは一輝の命ではなく、自分の恋――いいえ、あなたそのものなのでしょうけど」
「兄さんを生き返らせるため……?」
「ええ。まったく、私に無断で馬鹿なことを考えてくれたものだわ。一輝は冥界になどいないというのに」
「え……?」
「一輝は死んではいません。氷河が死んでいないのと同じくらい、一輝はぴんぴんしているわ。そろそろ、ひそかにキュクロプスの島に上陸した頃かしら」
「……」
アテナはいったい何を言い出したのか。
兄は死んでいない。
氷河も死んではいない。
彼女は そう言っている。
だが、そんなことはあり得ない。
それは、あるはずのないことだった。






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