「僕の血を吸ってください。あの……美味しくはないかもしれないけど」
その言葉を聞いた彼が、僅かに瞳を見開き、だが すぐに力ない声で答えてくる。
「俺は、人の血は吸わないと決めたんだ。不味くて――」
「不味くても、我慢して。死ぬよりましです」
「俺は、俺の敵である おまえを、俺の奴隷にしようとするかもしれない。俺が そうしないとは限らない。やめておけ。地上の平和とやらのために戦えなくなるぞ」
「目の前で あなたに死なれるよりいい」
「俺は おまえの敵だ。地上と人間の滅亡を願っている」
「僕の血を吸って。でも 僕はアテナの敵の奴隷になるわけにはいかないから、僕の血を吸い尽くして殺してください。その代わり、もう地上や人間の滅亡なんて望まないで。アテナの敵でいることをやめて。そうしたら、僕はアテナの敵を一人 減らすことができる。戦って倒したのと同じことになる。僕は、あなたに死んでほしくないの」

本当は、彼も生きていたいはず。
その希望にすがって、瞬は彼に告げた。
彼が、晴れた冬の日の空のような色の瞳に、死を覚悟したアテナの聖闘士の姿を映している。
敵の提案を受け入れるべきか否かを迷っているのだろう。
彼は、随分 長いこと、無言で瞬の瞳を見詰めていた。
そうして、長い沈黙のあとに突然、
「おまえ、綺麗だな」
と、この場では およそどうでもいいことを、呟くように口にする。

「え?」
「俺のマーマも綺麗だった。綺麗で優しくて、彼女のお荷物でしかない吸血鬼の俺を愛してくれた。マーマの血は美味かったぞ。小さな杯に、毎日少しずつ。あれが幼い俺の命をつないでいた。おまえの血も美味いのかもしれない」
「だったら いいのだけど……。もし不味かったとしても、我慢してください」
「おまえを殺したくはない。俺の眷族になれ」
「それはだめ。僕は、この世界を守りたいんです。滅ぼそうとする側の人間にはなりたくない。僕が確実に死ぬように、僕の血を吸って。そして、僕の命に免じて、アテナと敵対するのをやめてください」

彼がまた、黙り込む。
今度の沈黙は、さほど長いものにはならなかった。
孤独からの解放である死を望んでいる吸血鬼から、つれない答えが返ってくる。
「駄目だ」
「なぜ」
「俺はおまえに惚れた」
「は?」
「マーマ以外で、俺のために涙を流してくれる人に、俺は初めて会った。もういい――もういいんだ」
「もう いいって、何が……」

何が『もういい』というのか。
生きていることか。
孤独の中で もがき苦しみながら生に執着することか。
彼の敵の提案は、彼の死の覚悟を 更に強固なものにする方向に作用してしまったのだろうか。
だが、人間は――生きとし生けるものは――生の可能性があるのなら、どこまでも その可能性を追求し続けるべきなのだ。
自分の命を捨てることが、他の命をつなぐ力になるというのでない限り。

「もういいなんて、そんな悲しいこと言わないで」
彼の決意が悲しくて、瞬は幾度も微かに首を横に振った。
彼が、そんな瞬の頬に手をのばし、“敵”の頬を濡らしている涙を拭おうとする。
その指が瞬の涙に触れた途端、彼は、一瞬間、少し苦しそうに眉をひそめた。
「ん?」
そして、怪訝そうな顔になり、瞬の涙で濡れた人差し指と中指を 自分の舌の上に運ぶ。
その瞬間、彼は様相が変わった。
形相が一変した。

蒼白を通り越して土気色になっていた頬に血の気が戻り、くすんでいた金髪が陽光そのもののように輝き始める。
春の――あるいは冬の――空の色をしていた彼の瞳は、今は、真夏の、まさに これから中天に至ろうとして勢いづいている時刻の雲一つない青空の色をしていた。
北の国では 死んだと思われていた者が氷の中から蘇生したという話が幾つもあると 彼は言っていたが、今の彼が まさしくそれだった。
その瞼を覆い始めていた死の陰は、今はどこにもない。
彼は生気に輝いていた――生気そのものでできていた。
“生き返った”としか言いようのない彼が、瞬の手を取り、その場に立ち上がる。
四肢にも力がみなぎっている。
何より小宇宙が――今、彼の小宇宙は、空を、世界を覆い尽くしかねない勢いで燃え上がっていた。

「あ……」
「俺の名は氷河だ」
初めて、彼が彼の名を名乗る。
「ひょう……が……?」
「おまえは?」
「しゅ……瞬ですけど」
「瞬。忘れるな。俺は、おまえに惚れた。必ず おまえを俺のものにする。俺が生きていくために」
「え……あ……あの……」
『食事はどうするの』と馬鹿なことを訊きそうになった瞬の前から、ふいに彼の姿が消える。
途轍もない跳躍力で、彼は 次の瞬間、小さな林の反対側、瞬のいる場所から50メートルほど離れたところにある剥き出しの大理石の上に立っていた。
彼の身に、いったい何が起こったのかが わからず呆然としている瞬の姿を しばし見詰めていた彼の姿は、更に一瞬後、今度こそ完全にどこかに消え失せていた。

「氷河……?」
ウサギ一羽 倒す力もないと言っていたし、実際そう見えていたのに、彼の この豹変、この早業は どういうことなのか。
もしかしたら自分は 冗談好きの敵に からかわれていたのだろうか。
だが、孤独に耐えられないと訴えていた彼の声や眼差しが 敵をからかうためのものだったとは、どうしても思えない――。

晴れ渡った初夏の午後。
聖域の上には、別れ際の氷河の瞳のそれに比べれば はるかに穏やかな色を たたえた水色の空。
アテナの結界は 依然 強固なまま、聖域全体を覆い守っている。
1、2時間の時の経過の他は、世界の何もかもが彼に出会う以前と変わっていない。
自分は ここで白昼夢でも見ていたのだろうか。
瞬は本気で、そんな疑いを胸中に抱いたのである。

「瞬! 今 この辺りから ものすごい勢いで 小宇宙が湧き起っていなかったか !? 」
「聖域の中では接したことのない小宇宙だったぞ。瞬、無事か」
「星矢……紫龍……」
聖域から駆けつけてきた仲間の言葉だけが――氷河を知らない者たちの言葉だけが――氷河との出会いが白昼夢でなかったことを 瞬に信じさせる唯一の証だった。






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