「氷河……」
瞬が、その人の名を小さく呟く。
「あれが、おまえの惚れた吸血鬼なのかよ……!」
“声をひそめて質問する”などという、普段の彼になら決してできない芸当を星矢がしてのけたのは、彼が 不気味なほどの沈黙に包まれている その場の空気を読んだから――ではなく、彼が仲間の身を気遣ったからだったろう。
アテナの結界を破って聖域に侵入し アテナに危害を加えようとしている(のかもしれない)男と 瞬が知り合いだという事実を、その場にいる他の聖闘士たちに知られることは、瞬の立場をまずいものにしかねない。
強大な力を持つ侵入者と正面から対峙し その身を危険にさらしている当のアテナは、彼女の目の前にいる敵を恐れている様子は全くなかったが。
「私の結界をどうやって破ったのです」
驚異的な小宇宙を持つ敵に そう尋ねた時、アテナは その目許と口許に明るい笑みを刻んでさえいた。

「あなたには わかっているんだろう。もちろん、愛の力で破ったんだ」
強大な力を持つ敵――氷河――が、意外や 高圧的でも攻撃的でもない穏やかな声で、だが きっぱりと言い切る。
アテナに そう答えてから、彼は僅かに首をかしげた。
「……としか、思えん。以前、俺が、絶望と憎しみに囚われて聖域を覆っている あなたの結界を破ろうとした時には、俺の力は あの結界に まるで歯が立たなかったんだ」
「愛の力?」
問い返すアテナは、ひどく楽しそうだった。
彼女は、氷河が聖域や彼女に対して敵意や害意を抱いていないことに――誰に対しても敵意や害意を抱いていないことに――気付いていた。おそらく。
氷河が 軽く顎を引くようにして、聖域を統べる女神に頷き返す。

「女神アテナ。俺は、あなたに 是非とも叶えてほしい願いがあって、ここに来たんだ。少々 不作法で乱暴な来訪になってしまったことは謝罪する。だが、俺の願いを叶えてもらうには、俺の力を示してみせるのが最も手っ取り早い やり方だと思ったんでな」
「あなたの願いというのは何」
「俺を聖域に置いてくれ。そして、できれば聖衣を一つほしい。金だの銀だのの仰々しいのはいらない。瞬と同じ階位の軽いやつがいい」
「なんか、すげー図々しい奴だな」

氷河の“願い”を聞いた星矢が、苦々しい顔になる。
聖闘士が聖闘士になるために、どれほど厳しい修行を積み、耐えるのか。
“階位の軽いやつ”を まとう資格を得るために、瞬が どれほど つらい思いをしたか。
瞬以外の すべての聖闘士たちも――尋常の人間には到底 耐えられないような修行を耐え抜いて、それこと死ぬような思いをして、聖衣をまとう資格を手に入れたのだ。
その事実を、この侵入者は知っているのだろうか。
黄金聖衣や白銀聖衣を まとう力を有しているにも かかわらず、“瞬と同じ階位の軽い”聖衣を望む氷河の傲慢に、星矢は思い切り むかついていたのである。
その星矢の隣りで 氷河の姿を見詰めている瞬の瞳は、既に涙でいっぱいだった。

「あなたに まとわれたがる聖衣はいくらでもあるでしょうけれど……瞬? あなたに これほどの愛の力を生ませた相手は瞬なの?」
星矢が、不作法で乱暴な侵入者に名を出されてしまった瞬を広間の中央に押し出したのは、瞬の知り合いの吸血鬼がアテナの敵として ここにやってきたのではないことが わかったからだったろう。
この件に無関係な者として、瞬を 局外者の中に隠しておく必要はないと悟ったから。

「氷河……」
星矢に背中を押され 一歩 前に出た瞬を振り返った氷河が、瞬に微笑を向けてくる。
それは、瞬が初めて見る 氷河の明るい笑顔だった。
「瞬。相変わらず可愛いな。どうしたんだ。何か悲しいことでもあったのか。泣いているように見えるぞ」
瞬は、悲しいことがあったから泣いているのではなかった――もちろん、そうではなかった。
「氷河、生きて……生きててくれたんだね……」
涙で濡れ、だが かすれてもいる声で、やっと それだけを言う。
氷河は、笑って頷いた。
「あの時――おまえは俺のために泣いてくれた。おまえの涙で、俺の身体と心に力が戻ってきたんだ。あの1粒の涙の力で、俺は多分 あと1年くらいは生きていられるだろう」
「涙……? 血じゃなくて?」
「ああ。おまえの涙は特別製のようだ。驚くほどの力を俺に与えてくれた。かつてないほど、俺の心身には力が みなぎって――あのあと、俺はすぐに例のティターン神のアジトに戻って、おまえの敵である奴等を全部 倒してやったんだ。おまえが生きている、この世界を守るために」

「あの邪神の潜伏基地を壊滅させたのは、おまえなのかよ!」
声のボリュームを抑えることを忘れ、星矢が素頓狂な声をあげる。
「凄まじいまでの愛の力だな」
星矢たちより先にアテナ神殿に駆けつけていた紫龍は、低く唸るような声で そう呟いた。
全く 褒めていない口調で。
ただただ呆れているとしか言いようのない声で。

紫龍のそれは、少しずつ事情がわかり始めていた局外者たちの思いを代弁するものだったろう。
圧倒的な氷河の小宇宙に脅威を感じ、極限まで緊張しつつ身構えていたアテナの聖闘士たちは、氷河の“愛の力”とやらが どういうものなのか、誰に向かったものなのかを知らされて、徐々に その緊張を解き始めていた――というより、気が抜け始めていた。
“愛の力”自体に文句を言うつもりはないが、一人の人間に捧げるにしては、氷河のそれは無意味に強大すぎるのではないかと。
今では ただのモブキャラになり果ててしまった同志たちの そんな気持ちに気付いた様子もなく、瞬は 涙で潤んだ瞳で氷河の姿を見詰めている。

「氷河……生きていたなら、どうして すぐに僕のところに来てくれなかったの」
「それはまあ……俺が人の血なしで、本当に生きていられるのかどうかを確かめるのに、時間が必要だったんだ。おまえに会った日から ひと月以上、俺は飢えを感じなかった。渇きに苦しめられることがなかった。一秒でも早く おまえに会いたいという気持ちには、かなり苦しめられたがな。……会いたかった。おまえは? おまえは、俺に会いたいと少しでも思っていてくれたか」
氷河は なぜ そんなことを訊いてくるのか。
なぜ、そんな わかりきったことを訊いてくるのか。
『僕も会いたかった』と答える代わりに、瞬は その場から駆け出し、飛びつくような勢いで、氷河の首にしがみついていった。

「心配したの……心配したの……! 氷河は死んで塵になって消えちゃったんじゃないかって、僕、すごくすごく心配したんだよ!」
「……悪かった」
瞬の身体を強く抱きしめ、低く短く謝罪してから、氷河が首を左に傾け、瞬の頬に――というより、瞬の頬を濡らしている涙に唇を押し当てる。
そうして彼は、その舌で、瞬の涙を舐め取った。
途端に、それでなくても強大だった氷河の小宇宙が、更に 途轍もない勢いで燃え上がる。
「これは……」
敵でないらしいことは わかっても脅威を覚えずにはいられない、その力。
その場に居合わせていた聖闘士たちは、聖闘士と聖闘士志願による男同士のラブシーンより、氷河の力の方に気を取られ――というより、圧倒されていた。
それは 瞬の友人である星矢も同様で、氷河の強大な小宇宙に圧倒されながら、星矢は、泣きじゃくる瞬を抱きしめている男に確認を入れることになった。

「おまえが たった一人で、世界の滅亡を企む邪神一派を みんな倒したのか?」
「ん? ああ。俺が聖域側に付くと言ったら、邪魔してきたんでな」
「瞬は、おまえが吸血鬼だって言ってたけど――」
「吸血鬼?」
星矢が口にした非常識かつファンタジック、荒唐無稽かつエキセントリックな単語に、その場で拍子抜け状態になっていた聖闘士たちが ざわつき始める。
氷河は、だが、モブキャラの驚きや戸惑いなど、まるで気にした様子を見せなかった。
そして、非常識かつファンタジック、荒唐無稽かつエキセントリックな単語に、堂々と頷いてみせる。
「ああ。だが俺はもう、人の血を必要としない。瞬の涙は、その一粒が人間100人分の全身の血に値する。しかも、美味い」

そんなことは大した問題ではないという顔で そう言ってのける氷河に、どう反応したものか。
星矢は暫時、迷ってしまったのである。
吸血鬼などという生き物が この世に存在するはずがない――というのが、星矢の常識だった。
しかし、それこそ非常識としか言いようのない氷河の強大な力を示されると、それを嘘だと決めつけることも難しい。
本当に吸血鬼なら誰かの血を吸ってみせろと言うことは、なおさらできない。
決断を下したのはアテナだった。

「あらゆる意味で、野に放っておくのは危険な人材だわね。敵にまわしたくもないし。瞬。彼の世話を頼んでいいかしら」
「はいっ!」
アテナは、聖域に氷河を受け入れることにしたらしい。
もし本当に彼が吸血鬼なら 味方にするのは危険だが、これほどの力を持つ者を敵にするのは、その百倍も危険。
それがアテナの判断のようだった。
その場にいる他の聖闘士たちも 彼女の判断を妥当なものと考えたようで、アテナに異議を唱える者は一人も現れなかった。
アテナの決定を喜んで、瞬が元気にアテナに頷く。

アテナの決断は、氷河にとっても もちろん喜ばしいものだったのだろう。
彼は今になって、アテナに自分の売り込みを開始した。
「俺は お買い得だぞ。食い物はいらないし、眠る必要もないから、寝ずの番もできる。2、3日くらいなら 不休で戦い続けることも可能だ。その上、愛の力を重んじる あなたの考えに諸手を挙げて賛同している。愛の力は、この世で最も強く、最も価値あるものだ。どこかの詩人が言っていただろう。『我々は いかにして滅ぶか――愛なきため。我々は何によって自己に打ち克つか――愛によって』。あれは全く正しい。愛だけが、俺を生かし続ける唯一の力だ」

滔々とうとうと流れる大河のごとく演説を続ける氷河の手は、アテナの御前だというのに、ちゃっかり瞬の腰にまわされている。
色々と問題のある男のようだったし、星矢などは 胸中で『なに言ってんだ、この馬鹿』と氷河に毒づいてもいたのだが、アテナが氷河を聖域に受け入れると決めたのであれば、彼女の聖闘士は その決定に従うしかない。
なにより、昨日まで まるで元気のなかった瞬が、今はアテナの決定を喜んで その瞳を明るく輝かせている。
だから、星矢は――おそらく、その場にいた他の者たちも――しぶしぶ、強大な小宇宙を備えた吸血鬼を、地上の平和と安寧を守る同志として受け入れることにしたのだった。
――のだが。






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