侵入者は、当然のことながら飢えたヒグマではなく 人間だった。
だが、彼の姿を間近で見て、彼をヒグマと見間違っても それは仕方のないことだと、アテナの聖闘士たちは思ったのである。
身長は190センチに届かないほど。
ヒグマよりは はるかにほっそりした体躯をしているが、それはヒグマに比べるから そう感じてしまうだけであって、人間としてみれば 彼は かなり鍛えられた筋肉質の体躯の持ち主のようだった。
『ようだった』という言い方になるのは、彼の身体は そのほぼすべてが――頭部以外のすべてが――身体の線を見極められない仰々しい衣服で覆われていたから。
彼は、黒い膝丈の絹の胴着を身に着け、その上に、くるぶしまで届くビロードの黒いカフタンを羽織っていた。
カフタン――前開きのコートのようなもの――の裾は、黒貂の毛皮で縁どられている。
胴着の臙脂色の帯には、細かい彫刻が施された青銅の鞘の剣を差し、黒いロングブーツは おそらく牛皮をなめしたもの。

瞬は、彼の姿をロシアの歴史劇の登場人物のそれのようだと思い、星矢は黒いワンピースに黒いオーバーコートを着た女装趣味の男だろうかと疑った。
彼等の注意が なかなか不審人物の顔にまで向かわなかったのは、彼等が観察すべき人物の 季節感が全くない衣装の仰々しさのせいだったかもしれない。

「あの、あなたは――」
「どこの仮装パーティ会場から紛れ込んできたんだよ、おっさん」
人の顔を凝視するのも気が引けて、ちらりと見ただけだったが、彼は『おっさん』と呼ばれるには早すぎる年齢の若い男性である。
仲間の礼を失した言葉使いに慌てて、瞬は彼に謝罪しようとしたのだが、瞬はすぐに その必要がないことを知らされた。
「ここはどこだ」
彼は、日本語ではない言葉で瞬たちに尋ねてきたのだ。
「ロシア語……か」
紫龍が呟きながら、最後にこの場に到着した氷河を振り返る。
『そうだ』か『違う』、いずれかの返事を期待したのだが、氷河は無言だった。
アテナの聖闘士たちは、侵入者の恰好の異様さに呆れ驚いて その目をみはっていたのだが、対峙する相手の恰好に呆れ驚いていたのは、この屋敷の住人たちだけではなかったらしい。

その場にやってきた星矢たちの姿を見て、アテナの聖闘士たちが自分と同じ国語を話す者だとは思わなかったのだろう。
“変な人”は、同じことを、ドイツ語、次にイタリア語で尋ねてきた。
彼は、日本語を解していないらしい。
『氷河にロシア語を教えておいてもらってよかった』と思いながら、瞬は侵入者の質問に答えようとしたのである。
「ここは……」
「日本だ。今は21世紀」
瞬より先に、氷河がロシア語で答える
『ここはどこだ』という侵入者の質問に『グラード財団総帥の私邸だ』と答えなかったのは、彼が、その不審人物を、城戸邸の近隣に住まう者 もしくは城戸邸の近所の家の訪問者が迷子になって この庭に迷い込んできた人物だとは考えなかったからだったろう。

「日本? 21世紀?」
侵入者が、何を言われたのか わからない――という顔をする。
「あんた、誰だよ」
今ひとつ頼りない発音だったが――星矢はロシア語の巻き舌が苦手だった――星矢のロシア語での誰何すいかは 彼に通じたらしい。
筋肉質の長躯にふさわしいバリトンの声で、彼は彼の名を答えてきた。
「レフ・ヴィノグラードフ公爵だ」
ロシアの名である。
その名乗りだけで、星矢たちは、今 ここで 尋常のことではない何かが起きていることを、即座に理解した。
現在のロシアに 爵位を有する者はいないのだ。

時の神クロノスの悪ふざけかよ」
どう考えても、そうとしか考えられない。
でなければ、彼は狂人である。
だが、彼は狂人の目をしてはいなかった。

彼は頑健そうな身体の持ち主で、その身体は相当に鍛えてあるもののようだったが、それは聖闘士――あるいは それに類する闘士――の鍛え方によってできたものではない。
意識して鍛えたものではなく、おそらく 日常生活において――馬を駆り、剣を振るうような日常生活において――自然に鍛えられたもの。
小宇宙も感じられない。
してみると、彼はアテナとアテナの聖闘士の敵ではなく、いわゆる“一般人”に分類される人間である。
歳は20代半ば――といったところだろうか。
肩まである黒い髪は緩やかに波を打っていて、特段の加工はされていないようだった。
目、鼻、口――各部位は大作りだが 見事にシンメトリーな配置が、その面立ちに端正な印象を持たせている。
日本人の瞳より更に濃く黒い瞳。
彼の漆黒の瞳は、星矢に冥府の王のそれを思い起こさせた。
とはいえ、二人の印象はまるで違っていたが。

冥府の王の印象は、彼が汚れと見なすものを徹底的に排除してできた 澄んで冷たい闇だったが、ヴィノグラードフ公爵の印象はそうではなかった。
彼の瞳は澄んではいたが澄みきってはおらず、何より人間らしい温かさを有していた。
明敏そうではあるが、冷徹ではない。
色が漆黒でなかったなら、彼の瞳の佇まいは、むしろ氷河のそれに似ているのではないかと、星矢は思ったのである。
それは、厳しい冬を耐える国に生まれた者が共通して持つ特性なのだろうか。
いずれにしても、クールぶろうとしてクールになりきれない男に似ているという評価が、ヴィノグラードフ公爵を名乗る人物にとって名誉なことなのか否かの判断に迷った星矢は、自分がヴィノグラードフ公爵に対して 感じ考えたことを言葉にすることはしなかったが。

ともあれ、彼は狂人でも敵でもないようだった。
現在 置かれている状況に、彼が戸惑っているのも事実のようである。
そう判断し、アテナの聖闘士たちは、彼を城戸邸内に招き入れることにしたのである。
敵か味方か わからない者たちの住まう城館(と彼は言った)に、罠が仕掛けられているかもしれないのに不用意に入ることはできないと言い張る公爵を説得するのは、瞬の役目。
「帯剣したままで構いませんよ」
「その上着は暑苦しくありません?」
「この庭を歩きまわっていても、きっとどんな情報も得られません」
「どうして こんなことになったのかを話していただければ、僕たちは あなたの お力になれると思うんです」
人の気持ちを穏やかにする あの声で、瞬が公爵を説得する。
ヴィノグラードフ公爵は、最終的に、瞬の澄んだ瞳を信頼して邸内に入ることを承知したようだった。






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