そうして、時空を超えた異邦人と アテナの聖闘士たちが腰を落ち着けた城戸邸のラウンジ。
そこで ヴィノグラードフ公爵がアテナの聖闘士たちに語った事柄は、ある意味では 想像していた通りのものであったが、同時に彼等の想像を絶したものでもあった。

彼――レフ・ヴィノグラードフ公爵――の“現在”は、西暦1718年。
1718年現在の彼の年齢は26歳。
ヴィノグラードフ家は、長く続いたロシアの大貴族の家系で、皇帝ピョートルが爵位制度を導入した際、公爵家に叙されたということだった。
彼の母親アナスタシアは、皇帝ピョートルの最初の妻エヴドキヤ・ロプーヒナの従妹で、20年前に彼女が皇帝から一方的に離縁され修道院に幽閉されたあとも、しばしば不運な従姉の許を訪ねて援助を続けていたらしい。

離縁された前皇妃エヴドキヤ・ロプーヒナと皇帝ピョートルの間には、アレクセイという名の息子(皇太子)がおり、母の縁故でレフ・ヴィノグラードフ公爵は皇太子と交流を持っていたのだそうだった。
アレクセイ皇太子は信仰心が強く、正教会をないがしろにして進められる父帝の西欧化政策に反発、皇太子の周囲には反体制派の人々が集まり、皇帝にとっては芳しくない状況が形成されていた。
息子に対する父帝の猜疑心は深いもので、3年前 皇太子はウィーンに亡命。
翌年ナポリで捕えられ、故国に連れ戻された。
皇帝は、アレクセイ皇太子の帝位継承権を奪い、息子に皇位簒奪の陰謀の疑いをかけ、投獄。
そして、皇太子に近しかった者たち――支持者や近親、友人等に、弁明のために王宮に参じることを命じた――らしい。

ヴィノグラードフ公爵は、皇帝の西欧化政策自体は支持していたのだが、アレクセイ皇太子の友人であったため、当然のごとく 皇帝の招集命令の対象となったのである。
血のつながった実の息子をさえ投獄するような皇帝が、いかに名門貴族の当主とはいえ臣下の弁明を聞き入れるとは考えられない。
ヴィノグラードフ公爵は 己れの命を永らえるために自領で国外逃亡の計画を考え始めていたのだが、その計画が具体的な形をとる前に、前皇妃を訪ねていた母アナスタシアが皇帝の手の者に捕えられたという報が、彼の許に届けられたのである。
夫 亡きあと女手一つで一人息子を慈しみ育ててくれた母を見殺しにすることはできない。
逃亡の計画を投げ打ち、公爵は、母を救うため、皇帝のいるサンクトペテルブルクの王宮に向かって馬を走らせていた。

正教会の神も、西欧の神も、世界中の神もどうでもいい。
神になど、母の命に比べたら、どれほどの価値があるというのか――。
サンクトペテルブルクの王宮に向けて疾駆させていた馬の背で、そんなことを繰り返し考えていたことは憶えている――と、彼は言った。
そして、気付くと、彼が駆っていた馬は消え、周囲にあった白い雪原も消え、自分だけが 緑でいっぱいの庭の中にいたのだと。
それが、ロシアの名門貴族ヴィノグラードフ公爵がアテナの聖闘士たちに語った、彼の物語だった。

「私は、神の怒りを買ったのか」
ラウンジの肘掛け椅子に窮屈そうに身体を収め、呻くように そう言って、公爵は唇を噛みしめた。
「そんなことは……」
『ない』と言い切ることもできず、瞬は小さな溜め息を洩らしたのである。
頑健な体躯の持ち主が 力なく肩を落とし、自身のためではなく 愛する母親のために、己れの涜神行為を悔いている――。
瞬は、すっかり公爵に同情してしまっていた。
ロシア正教会の神、カソリックの神、プロテスタントの神――そういう神たちに毒づいただけなら、瞬も『神とは人の罪を許す存在でしょう』くらいのことを言って公爵の罪悪感を慰めることはできたのだが、彼は世界中の神を無価値なものと断じたらしい。
瞬が知る古い神々は、恐ろしく人間的で、気まぐれで感情的。
気が向くと何をするかわからないところがあった。
母を思う公爵の心を弄ぶくらいのことは平気でしかねない――のだ。

星矢も、瞬と似たようなことを考えていたらしい。
彼は、苦悩するヴィノグラードフ公爵を気の毒そうに見やって、溜め息混じりに呟いた。
「これがクロノスの悪ふざけだとしてもさ。このおっさんが飛ばされた先が、なんで、ここで、今なんだ?」
何不自由なく暮らしていた大貴族サマの身が、明日には処刑場の露と消えるかもしれないのだ。
アテナの聖闘士のそれほどではないにしても、波瀾万丈すぎる運命である。
“死”に向かって疾走していた最中に この災難(?)に見舞われたという彼の話を疑う者は、その場には一人もいなかった。
アテナの聖闘士たちは、神というものの気まぐれと自分勝手を、我が身をもって経験済みだったから。

「それは、まあ……ここがアテナのいる場所だからだとしか……。そう考えると、これは やはりクロノスの仕業か」
「もしかしたら、彼が氷河のご先祖様だとか――」
「このおっさん、氷河には全然 似てねーじゃん」
「でも、他にロシアにつながるものなんて、ここにはないよ」
「んー……」
公爵に疑心暗鬼を生ませることのないよう、アテナの聖闘士たちは それらのやりとりをロシア語で交わしていたのだが、その気遣いは公爵には全く通じていないようだった。
アテナやクロノス――彼が十把一絡げにして退け軽んじた神々の名――など意に介した様子も見せず、彼は、
「なぜ、こんなことになるのだ。私はこんなところで ぐずぐずしてなどいられない。一刻も早く、サンクトペテルブルクに向かわなくては――。母の命がかかっているんだ。私の到着が遅れれば、皇帝は腹を立てて 母を処刑してしまうかもしれん……」
と、彼の母の身を案じ、呻吟しているばかりだった。

「なあ、もしかして マザコンつながりなんじゃないか?」
「星矢、ふざけてないで。彼にとっては、彼のお母さんの命がかかった重大事なんだから」
瞬の叱責は 至極尤も。
星矢は、素直に自分の軽口を反省した。
だが、『21世紀の今ここで何をどう焦っても すべては無意味』と思う気持ちは消し去れない。
そんな星矢の反発を鋭く見てとったのか、ヴィノグラードフ公爵は焦慮に任せてアテナの聖闘士たちを怒鳴りつけてきた。
「私を元に戻せ! 何なんだ、おまえたちは! 皇帝の回し者かっ 」

自身の軽挙については彼に怒声を投げつけられても仕方のないものだと思うが、彼を気遣った瞬までが彼に怒鳴られることになるのは納得できない。
瞬の穏やかな叱責によって収まりかけていた星矢の反発心は、公爵の怒声によって再び 頭をもたげることになった。
焦る公爵を あえて無視し、わざと呑気な口調で、星矢が仲間たちに尋ねる。
「そーいや、このおっさんが さっきから言ってる皇帝って何者だよ? 話を聞いてると、すげー横暴で 血も涙もない爺さんみたいだけど」
「当たらずとも遠からずだな。彼の言う皇帝とは、ピョートル1世――ピョートル大帝のことだろう。西欧化を推し進め、欧州の辺境国と見なされていたロシアを 欧州列強の一員にまでしてのけた、全ロシア初代皇帝。血も涙もない――とまでは言わないが、そんなものを ふんだんに持っていたら成し遂げられなかっただろうことを成し遂げた、偉大な人物――ということになる」
それで間違いはないかと確かめるように、紫龍が氷河の上に視線を巡らす。
そうして紫龍は、ヴィノグラードフ公爵に対して この場で最も強い反発心――敵意といっていいほどの反発心――を抱いているのは、星矢ではなく氷河その人だということに気付いたのである。

「俺たちが連れてきたわけじゃない。貴様が勝手に来たんだ」
同国人への親しみはおろか 同情も感じられない冷淡な口調で、氷河が いきり立つヴィノグラードフ公爵を突き放す。
そのせいで公爵への瞬の同情心は ますます深まることになったようだった。
「氷河まで、そんな言い方……。駄目だよ。こんな状況のこと、普通の人が すぐに理解できるわけがないんだから」
軽く氷河を睨んでから、瞬は、気が急いて落ち着かない様子の公爵を気の毒そうに見詰めた。
「お母様が心配で焦る お気持ちはわかりますけど、どうか落ち着いてください。さっきも言いましたけど、今はあなたが生きていた時代より300年もあとの時代。ここで今 あなたが焦っても、あまり意味はないんです。僕たちにとって、あなたは ずっと昔に生きていた人。あなたのお母様を拘束しているピョートル大帝は300年も前に亡くなっているんです」
亡くなっているのはピョートル大帝だけではない。
瞬が あえて皇帝の死にだけ言及したのは、瞬の公爵への気遣いだったろう。

氷河がテーブルの上にあったリモコンの電源を入れたのは、それでも 状況が理解できずに気が立っているらしい公爵の気持ちを落ち着かせるためというより、ともかく彼を静かにさせるためだったのかもしれない。
ラウンジの壁にPC・プロジェクター画面表示用のスクリーンが下りてくると、氷河は そこに、物もあろうに 昨日星矢が観ていた古いSFパニック映画を映しだした。
そびえ立つ高層ビル群、大挙して押し寄せてきた異星からの円盤型宇宙船、それらが放つ衝撃波によって破壊される街、逃げ惑う人々の波。
2メートル四方のスクリーンに映し出される、パニックに陥った人間たちの阿鼻叫喚の様。
公爵は驚きのあまり呼吸することも忘れたかのように 瞳を大きく見開き、それきり黙り込んでしまった。






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