荒療治もいいところだが、それは公爵を静かにさせることに功を奏した――奏しすぎるほどに奏してしまったようだった。
「あ……ピョートル大帝の息子のアレクセイというと、確か、彼を主人公にしたオペラがあったと思うけど……。身分違いの女性との恋物語――だったかな……」
悪事を働いていないにもかかわらず永劫の地獄に落とされてしまった人間より絶望的な顔になってしまった公爵の気持ちを引き立たせるために、瞬は そんな話を持ち出したのである。
そんな瞬の考えは わかっているのだろう氷河が、
「ピョートルの皇太子アレクセイ・ペトロヴィチは 反逆罪で死刑宣告を受け、獄死している。1718年に」
と、日本語で告げてくる。
1718年。
それは、公爵の“現在”と同じ年。
ロシア語で言わなかったのは、公爵への氷河なりの思い遣りだったのか。
氷河が告げた歴史的事実に愕然としながらも、瞬は氷河の思い遣りに短い安堵の息を洩らしたのである。

だというのに――次の瞬間、氷河は同じことをロシア語でヴィノグラードフ公爵に告げていた。
300年後の文明に圧倒され 声を失っていた公爵の頬から血の気が失せ、彼の頑健な身体が小刻みに震え始める。
「氷河……!」
氷河の冷酷が理解できず、瞬は彼の名を叫んで 彼を責めたのである。
だが、氷河は動じる様子も見せない。
いずれは知れること、知らせておくのも思い遣り――という考えが、彼の中にはあったのかもしれなかった。
しかし――。

血のつながった実の息子をすら死に追いやる皇帝が、その親戚や友人ごときに恩情を示すことがあるだろうか。
「母は――」
公爵が、乾いた唇で やっと それだけを呟き、立ち上がる。
「にーちゃん、落ち着け。もし にーちゃんが 元の世界に帰っても処刑される運命だってのなら、クロノスは にーちゃんを死なせないために こんなことしたのかもしれない。俺たち、これはクロノスの悪ふざけだって決めつけてたけど、そうじゃなかったのかもしれない。もし そうなら、にーちゃんは ずっとここにいればいい。それで にーちゃんの命は救われるんだ」
『おっさん』が『にーちゃん』に変わる。
さすがに能天気な星矢も、彼に同情を覚えたようだった。

「帰らなければ、母の命が――」
「帰れば、殺されるかもしれないんだぞ」
公爵のために、星矢は言っている。
瞬にも、それはわかっていた。
いったい どういう訳があって こんな不思議が起きることになったのか――それがクロノスの悪ふざけなのか、慈悲なのか――は わからないが、縁があって知り合った人を死地に送り返すようなことは、瞬とて したくなかった。
決して公爵を死なせたいわけではない。
それでも、瞬は、仲間に、
「星矢……でも、お母さんを見捨てることはできないでしょう」
と言わないわけにはいかなかったのである。

「んなこた、わかってるよ!」
苛立った声で、星矢が瞬に怒鳴り返してくる。
それは、わかりきったこと、考えるまでもないことだった。
公爵の立場に置かれたら、星矢も元の世界に帰ることを選ぶ。
たとえ、その結果、自分の死が免れ得ないことがわかっていても。
ここに残れば、生き延びることができるのかもしれないとしても。
それでも彼は彼の世界、彼の時代に帰るのだ。

とはいえ。
どれほど帰りたいと望んでも、どうすればいいのかがわからない。
その場に棒立ちになった公爵を、瞬は言葉を尽くして説明し、慰撫した。
急いでも、焦っても、何にもならないこと――事態は好転しないこと。
もし彼が元の時代に帰れたとしたら、そこでは 彼が現代に飛ばされた時から1秒も時間が経過していないだろうこと。
この家は古いギリシャの女神の住まう場所で、彼女が海外視察から帰ってくれば、必ず力になってもらえるだろうこと。
瞬の説明を完全に理解したとは言い難い様子だったが、急いでも意味がないことだけは公爵もわかってくれたらしい。
瞬に促され、彼は元の場所に腰を下ろした。

「未来――300年後の未来……」
公爵が、低く呻くように そう言い、彼の時代、彼の世界を探すように虚空を見詰める。
そして、それきり 彼は口をつぐんでしまった。






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