10代の頃、フランス、イタリア等、西欧諸国に留学していたことがあるとかで、公爵の食事のマナーに問題はなかった。
蛇口からお湯が出る風呂とシャワーにも、かなり驚きはしたようだったが、その仕組みは容易に察することができたらしく、彼はすぐに使い方を覚えてくれた。
問題は着替えだったが、それは究極のフリーサイズであるところの和服でどうにかなった。
彼は、それを『作りはカフタンと変わらない』と言って、いっそスタイリッシュといっていいほど見事に、ロシア風に着こなしてみせてくれた。

300年の時を隔てても 人間の生活というものに大差はないらしく、18世紀の人間が21世紀の世界で暮らすことに、そういった次元での大きな支障はなかった。
そして、支障がないことに より驚いたのは、18世紀に生きる人間ではなく21世紀に生きている人間の方だった。
その事実の前で、アテナの聖闘士たちは、自分の中に未来人・文明人としての驕りがあったことに気付き、大いに反省することになったのである。

「沙織さんは、グラードの海外法人の視察に出ていて、10日後に帰ってくる予定なんです。沙織さんが帰国したら、クロノスと話をつけてもらって――多分、この事態を打破してくれると思います。あなたの お母様は、きっと無事。ここにいる限り、あなたの身に危険が及ぶことはありませんから、あまり考えすぎずに ゆっくり休んでくださいね」
21世紀に来た直後に比べれば、公爵の気持ちは だいぶ落ち着いたようだった。
照明の使い方、施錠の方法、非常口の場所を教え、公爵のために用意された客用寝室を辞そうとした瞬に、彼は、
「ありがとう」
と礼さえ言ってくれた。

慌ただしい一日の終わり。
瞬は、ほっと安堵の息を洩らして、自室に戻ったのである。
そうして、2階の自室のベランダから、今日の午後 公爵を見付けた場所に視線を投じた瞬は、そこに つい先刻『おやすみなさい』を告げた人の姿を見い出して、公爵の一日がまだ終わっていないことに気付いたのだった。


「眠れませんか」
広い庭の あちこちにある常夜灯と、ほぼ真円に近い白い月、邸内の窓から漏れてくる各部屋の灯り。
多方向からの光が庭の木々の輪郭をぼやけさせ、そこを不確かで非日常的な場所にしていた。
夜の闇の中で濃さを増した緑と、光を受けて白い花のように輝いている緑。
幻想的にさえ見える夜の庭の風情に気付き、公爵は あの場所に立ったなら元の世界に帰れるのではないかと考えたのだろうか。
だから、眠りの誘惑を退けて、ここにやってきたのだろうか。
彼は それほどに―― 一刻も早く元の世界に帰りたいのか。
21世紀で焦っても急いでも、18世紀の世界では何も変わらない――そんな理屈で彼の気持ちを落ち着かせることができたと思い込んでいた自分の浅はかを、瞬は後悔した。

「瞬……くん」
幻想的な夜の庭に 瞬の姿を見い出した公爵が、ひどく気まずそうに、今という現実に生きている人間の名を呼ぶ。
不粋なことをしている自分を自覚して、瞬は心苦しい気分になった。
「瞬でいいですよ」
「では、私のこともレフと」
「え……」
目上の人を呼び捨てにしていいのかという ためらいが、瞬を一瞬 戸惑わせたが、今ここで現実世界の作法の問題を持ち出すのは、不粋の上に不粋を重ねる行為である。
「え……と、呼べるようでしたら」
瞬は、素直に(?)公爵に頷いた。

公爵は、この場に現実の空気を持ち込んだ瞬の不粋に 気分を害されてはいないようだった。
むしろ彼は、現実から幻想の中に逃げ込もうとした自分自身を恥じていて、瞬の振舞いに不快を感じるどころではなかったらしい。
しばし ためらい、そうして彼は――彼も――素直になることにしたらしい。
素直に、正直に、彼は、自分が 束の間 現実からの逃避を図ったことを告白してきた。

「大きな なりをして情けないと笑わないでくれ。不安でならないんだ。母のこともあるが、なぜ私が未来などに来ることになったのか、その訳が まるでわからないことが。私は、何というか――こんな不思議に巻き込まれるような特別な人間ではない。神の御心を満足させられるほど清廉潔白な人間ではないが、神の怒りを買うほどの悪事を働いたこともない。悪魔や魔女に呪いをかけられるようなことをした覚えもない」
それはそうである。
彼は こんな災難に巻き込まれなければならないような、どんなこともしていない。
もしクロノスが――あるいは他の神が――神より母の命の方が大事だという彼の心を不快に思って こんなことをしでかしたというのなら、その神は 人の心を解さない愚かで傲慢な神である。
公爵は、その思いを悔いる義務も必要もない。

「笑ったりなんかしません。こんな状況の中に投げ出されて不安にならない方がおかしいんです」
「ありがとう。君たちが この不思議を私ほどには驚いていないようなので、小心で未熟な子供のように不安がる私は、君たちに笑われているのではないかと思っていた。私は、人に笑われることに慣れていない」
「僕たちが驚いていないように見えるのは、僕たちが豪胆だからでも 成熟した大人だからでもなく、僕たちがそういうことに慣れているからなんです。ただ それだけ。笑ったりなんて――」
『人に笑われるのではないか』
そんなことを気にする公爵には、こんな事態に陥っても、自分は貴族だという矜持があるのだろう。
“子どもに対する大人”という気負いもあるのかもしれない。
ヴィノグラードフ家は、ロシアでも長く続いた大貴族の家系だと、彼は言っていた。
彼は、人と対等に接することに慣れていないのかもしれない。
考えてもいなかった生活面での支障に気付いて、瞬は少し緊張した。
明日からは、彼に接する際には、彼のプライドを傷付けないように注意しなければならない――と。

そんなふうに思い始めていた瞬に、公爵が 思いがけないことを言ってくる。
「だが、君になら笑われてもいい。いや、笑っていてくれ」
「え……?」
「君は とても可愛らしい。長い冬に耐えて、ついにやってきた春に初めて見付けた花のようだ」
「は?」
「君にとっては、私など、ただの みすぼらしい迷い犬のようなもの。放っておいても、神も文句は言わないだろうに」
「そんなことは――」
「君のように可憐で親切な人に会えたことは僥倖だった。君との出会いは、こんな訳のわからない状況の中にあって、唯一よかったと思えることだ」
「……」

瞬が懸念したほどには、彼は封建時代の身分制度に囚われてはいないのかもしれない。
あるいは彼は、21世紀にやってきて その無意味を悟ることになったのだろうか?
現代に生きている人間の感覚と価値観で、瞬は それをよいことだと思った。
どうやら 明日以降も、彼の身分に気を遣う必要はなさそうだと。
少し気が楽になった瞬に、公爵が苦笑混じりに告げてくる。
「君が少女でなかったことには驚かされたが」
「あ……すみません……」
「君は謝らなければならないようなことはしていないだろう」
「それは……そうですけど……」
「だが、本当に残念だ」
いつのまにか、公爵の目から笑いの色が消えている。
冗談を言っている人間のそれではない目で、言葉通り 心から残念そうに そう言われ、笑いに紛らすこともできずに、瞬は その心を軽く引きつらせた。



「おい、紫龍。この展開って、ちょっとまずくないか」
「うむ。身分制度の中に どっぷり浸かっていた人間に 身分を忘れさせる感情というのは、ごく限られているからな」
「面倒なことになんなきゃいいけど……」
夜の庭に もう二人、心だけでなく顔まで引きつらせている現実的な人間がいることに、瞬は気付いていなかった。






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