「氷河にはロシアの血が入っているんですよ。もしかしたら 話が合うかも――」
沙織の帰国まで、あと6日。
瞬が公爵に そんな提案をしたのは、ロシアの大貴族であるレフ・ヴィノグラードフ公爵が、この数日、彼のために何をしてやることもできない無力な平民の子供を見詰めてばかりいることに気付いたからだった。
冗談にしても――冗談には、笑える冗談と笑えない冗談がある。
公爵は、それを笑える冗談だと思っているのかもしれないが、瞬には それは あまり笑えない冗談に分類されるものだった。
そんな瞬の苦衷に全く気付いていないのか、瞬が発した救援信号を、氷河があっさり突っぱねてくる。

「合うわけがないだろう。生まれた国が同じだけで、歳も、暮らしている環境も違う。そもそも生きている時代が違う」
「そ……それはそうだけど、こんなことになって、公爵も心細いでしょうし……。氷河の方が僕よりは いい話し相手に――」
「話すことなどない」
取りつく島もない氷河の態度と答え。
公爵と氷河の間で 気まずげに身体を縮こまらせることになった瞬に、星矢と紫龍は 心から同情した。
氷河の不機嫌の訳もわかるから、彼等は 氷河の冷淡を咎めることも しにくかったのである。

「いや、でも、案外、話、合うんじゃねーか? 瞬が可愛いって話でもしてればいいんだ」
星矢が そんなことを言い出したのは、瞬を苦境から救うためというより、異邦人に この家の事情を知らせれば、彼に馬鹿げた振舞いをやめてくれるのではないかと期待したからだったかもしれない。
「彼は瞬が好きなのか」
その言葉を聞いて、公爵がすぐに反応してくるのは狙い通りだったが、彼の打てば響くような反応は 星矢には極めて不愉快なことでもあった。
公爵が 瞬に聞こえないような小声で――おそらく その事実を瞬に知らせることは得策ではないと考えて――尋ねてきたことが、星矢の不愉快を 更に大きなものにする。

「そうだけど……なんで そんなふうに思うんだよ。瞬は男だぞ」
「しかし、花のように可憐だ。しかも、全身から優しさが にじみ出ていて――あの澄んだ瞳は奇跡のようだ」
「お……おい」
ここは、『18世紀のロシアにも そういう趣味の人間がいたのか』と呆れ驚くべきところだろうか。
それとも、18世紀のロシアでは 現代よりも そういう趣味がポピュラーなものだったのか。
あるいは、そういう趣味に走ることを禁忌に感じさせない瞬が特殊すぎるのか。
確たる根拠はなかったが 3番目の推察が正解のような気がして、星矢は、少女よりも花に似た瞬の佇まいに腹が立ってきてしまったのである。
それは、瞬にいかれて・・・・いる男が氷河だけだった時には 生まれてきたことのない感情で、だから星矢は、瞬の優しい姿に腹を立てている今の自分を、その腹立ちを、理不尽だと感じていた。

いずれにしても――恋敵の存在を知らされても、公爵は氷河に遠慮する気はないらしい。
仕方がないので、星矢は、暖簾に腕押しの公爵ではなく、瞬の方に忠告しなければならない事態に陥ってしまったのである。
「瞬! おまえ、過剰に同情して、あの男に隙なんか見せるなよ! 万一 迫られるようなことがあったら、ちゃんと撃退するんだぞ!」
星矢のそれは、忠告というよりは 命令に近いものだった。
内容が内容だったので、自然に日本語になる。
瞬も、日本語で応じてきた。

「僕だって、ほんとは やめてほしいんだけど、公爵はいろんな不安を冗談に紛らわそうとしてるんだと思うと、はっきり『やめて』とも言いにくくて……。僕が しばらく我慢していれば、そのうち飽きてくれるよ。気持ちが落ち着いたらきっと、公爵も こんな冗談は――」
「なんで おまえが、こんなふざけた野郎のために我慢しなきゃならねーんだよ! 奴は、もう大人なんだから、甘やかすなっ」
「甘やかしてなんか……。ただ、僕、公爵が他人のような気がしなくて……。僕、以前、どこかで 彼に会ったことがあるような気がするんだ」
「んなことあるわけねーだろ」
「そうなんだけど、でも、確かに どこかで……」
「おい、瞬、しっかりしろよ。んなことは絶対 あり得ねーんだから」
「ん……うん……」

それが あり得ないことだということは、瞬もわかっているのだろう。
瞬は、自分の思い違いに固執することはしなかった。
「そう、そんなことより……あのね、僕、国会図書館に行って、公爵のことを調べてこようと思うんだ」
「この馬鹿野郎のことを?」
公爵が日本語を解さないのをいいことに、星矢は言いたい放題だった。
その侮蔑的代名詞に眉をひそめながらも、瞬が仲間に浅く頷き返す。
「ヴィノグラードフ家っていうのは、ロシアでも長く続いた大貴族の家なんでしょう? 何か記録が残ってるかもしれない。もしかしたら、彼がこれからどうなるのかも――」
「そりゃ、わかるかもしれねーけどさ……」
公爵の“これから”がわかることは、よいことだろうか。
星矢には、自信をもって『そうだ』と言い切ることはできなかった。

「お母さんが無事だったってことがわかれば、公爵も安心できるでしょう。そうすれば、こんな悪ふざけもやめてくれるかもしれないし――」
「瞬、でもよ」
「彼や その母親が処刑された記録がなければ、それは希望の材料になるだろうが、もし処刑された記録が残っていたらどうするんだ。知らずにいた方がいいこともあるぞ。彼はもちろん、俺たちも」
星矢の懸念を、紫龍が言葉にする。
「もし公爵が皇帝に処刑されていることがわかったら――」
瞬が、答えを言い淀む。

星矢は――おそらく紫龍も――『“もし公爵が皇帝に処刑されることがわかったら”、その事実を公爵に教えたりはしない』と瞬は答えてくるのだろうと思っていた。
まさか瞬が そこ・・を すっ飛ばして、
「元の世界に帰さなければいい」
と言い出すとは、彼等は思ってもいなかったのである。
「瞬、それは許されないことだ」
「あいつは帰るつもりでいるんだろ。母親がいる限り、帰らないわけにはいかないんだし」
星矢と紫龍が慌てて、とんでもないことを言い出した瞬に自制を促す。
星矢だけでなく紫龍までが顔色を変えたことで、公爵は、瞬たちが何か深刻なことを話し合っていると察したらしい。
彼は、アテナの聖闘士たちにロシア語で話すことを求めてきた。

「何を話しているんだ。ロシア語で話せ。私は日本語は『オハヨウ』と『オヤスミナサイ』と『バカヤロウ』しか わからない」
ロシア語を話せる日本人たちに囲まれて過ごした数日間で、日常生活で用いる挨拶と罵倒の言葉だけは覚えたことを、公爵がアテナの聖闘士たちに知らせてくる。
たった今 公爵を バカヤロウ呼ばわりしたばかりだった星矢は、一瞬 顔を引きつらせた。
すぐに、いっそ異邦人である公爵の悪口を言っていたのだと誤解された方が まずいことにならないと考え直し、意識して気まずげな顔を作る。

「あ、いえ、大したことではないんです。星矢が ちょっと乱暴な言葉で友人に親愛の情を示そうとするのは いつものことで――でも、失礼だからやめた方がいいって注意していただけなんです」
星矢を失礼な人間に仕立て上げることには気が咎めたが、そういうことにしてしまうのが この場を最も穏やかに収める最上の手段である。
瞬は、星矢にならい、嘘の弁明で その場を取り繕おうとした。
公爵は 幾分 気分を害するかもしれないが、そうすることで彼に余計な気をまわされずに済むはずだったのである。
訝る公爵に、氷河が、
「瞬たちは、貴様がこれからどんな運命を辿るのかを調べに行く算段をしていたんだ」
と、事実を教えてしまいさえしなければ。

なぜ こんな時だけ、氷河は公爵に親切なのか――冷酷なのか。
今より更に公爵を苦しめることになるかもしれない可能性を秘めた計画を 彼にばらしてしまう氷河の振舞いに、瞬は当惑することになった。
瞬が案じた通りに、公爵が、
「私の未来を調べる方法があるのか。ならば、私も行くぞ」
などという、危険極まりないことを言い出す。
瞬は、即座に彼の望みを却下した。
「だめっ! 駄目です」
「私の処刑の記録を見ることになるかもしれないから?」
「あ……」
「ならば なおのこと、私はそれを知らなければならない」

それが危険な計画だということは、公爵もわかっているようだった。
だが、彼は、自分の運命を知ってしまうことを恐れてはいないらしい。
あるいは、いっそ事実を知って覚悟を決めてしまいたいと思っているのか――。
公爵は今は、花を見るように 瞬を見詰めていた時とは全く様相の違う厳しい視線を、彼の未来を知る術を持っている瞬の上に 注いでいた。
花を見るような目で瞬を見詰める行為は、やはり彼にとっては、現実から目を逸らし 気を紛らわせるための方便だったのだろう。
公爵は、梃子てこでも決意を変えるつもりはないらしく、瞬は結局 彼の望みを叶えてやらなければならないことになってしまったのである。






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