レフ・ヴィノグラード公爵の処刑に関する明確な記録を見付けることはできなかったのだが、公爵は自身の刑死を確信してしまったようだった。 そうと信じるようになってから 公爵は花を見るような目で瞬を見ることをやめてしまった。 公爵のそれは、やはり不安を紛らわせるための冗談だったのだろう。 それがわかっても――瞬は腹は立たなかった。 そうまでして、不安に負け 叫び取り乱すようなことはすまい考えていた公爵の決意が 痛々しく感じられるばかりで。 とはいえ、自身の刑死を悟ってからも、公爵が自暴自棄に陥ることはなかった。 少なくとも、彼は 己れの絶望を態度に表わすことはしなかった。 それは、自分の辿る運命に取り乱し 無関係な者たちに迷惑をかけるわけにはいかないと考える公爵なりの自制と思い遣りだったのかもしれない。 瞬は、だが、公爵が自分自身の運命に取り乱し泣き叫んでくれた方がずっとましだと 思ったのである。 無言でじっと耐えている公爵の姿を見ていることの方が、瞬には はるかに苦しく切ないことだった。 公爵は、自身の運命を悟ってから、しきりに 時の迷子である自分を元の世界に戻す力を持つ女神の帰国はまだかと、アテナの聖闘士たちに尋ねるようになった。 それが以前のように、一刻も早く母を救いたいという気持ちから出る焦慮ではなく、『どうせ死を免れることができないのなら、さっさと死んでしまいたい』という諦観が生む開き直りであることが見てとれて――生気の輝きのない公爵の瞳から見てとれて――ある日、瞬は彼に言ってしまったのである。 「大丈夫です。いざという時には、僕があなたと一緒に18世紀に行って、あなたと あなたのお母様を守るから」 ――と。 それまで 従容として己れの死を受け入れる覚悟を決めた人間の冷静と穏やかさを装い続けていた公爵が初めて、その装いを少しだけ乱す。 「君が? その小さな身体で? 未来の科学力とやらを駆使して、ピョートルを殺してくれるとでもいうのか」 それは瞬がヴィノグラード公爵に会ってから最初に聞く、彼の意地の悪い声、皮肉の色をした言葉だった。 瞬を見おろす公爵の目は、完全に瞬を軽蔑している。 公爵の 氷のように冷たい蔑みの目に、瞬は一瞬 地上の平和を脅かす敵との死闘を繰り返し、そのたび 死地をくぐり抜け 生き延びてきたアテナの聖闘士が、言ってみれば一般人の――それも、生きる意欲を失い、半ば以上 生きることを諦めている一般人の――視線に。 公爵の冷たい声、言葉、態度、瞳に 彼の瞳には、百戦を経験してきた聖闘士を圧倒するだけの力がある。 人生を悟った大人のように 自分の生を潔く諦めた振りをしてはいるが、彼の中には まだ 自分の運命に対する怒りがあり、『生きたい』という気持ちが残っているのだ。 「それは……他の人の命を奪ってまで、公爵を守ることはできません。でも――」 「できないことは言うものではない。希望を持ってしまう。希望など、所詮は 人間の苦しみを増すことにしか役立たないもの。そんなものを持つから、人は自らの人生を苦く不幸なものにしてしまうのだ」 「だから、公爵はさっさとすべてを諦めて、そんな死人みたいな目をしているの? 公爵はまだ生きているのに、どうして そんなに死に急ぐんです。お母様を助けたいんじゃなかったの? 公爵自身だって、本当は生きていたいんでしょう? つらいのなら、泣いても怒っても――」 瞬の言葉は、公爵の神経を逆撫でしてしまったらしい。 彼は瞳や口調だけでなく、その表情にも はっきりと怒りの感情を浮かび上がらせてきた。 「君のような子供に何がわかるというのだ。私は自分の運命に取り乱すような見苦しい様を 君たちに見せたくないから、潔く覚悟を決め、希望などという無益なものを持たぬよう自制して――」 その諦めを、公爵は高潔な“大人の振舞い”だと思っているらしい。 だが、瞬には――アテナの聖闘士である瞬には――そう思うことはできなかった。 諦めてはいけないのだ、人は。 「希望を持つことの、何がいけないの! 僕は――僕たちは、希望だけを力にして、これまで戦ってきた。生きてきた。身体と心以外、自分のものと言えるものは希望しかなかったから!」 公爵は、ある意味では 物質面でも愛情面でも恵まれた幸福な人間だから――恵まれて幸福な人間だったから――諦めてしまうことができるのだ。 もちろん、それは公爵のせいではない。 瞬たち――アテナの聖闘士たちが、一般的には“恵まれない”と見なされるような境遇に生まれ育ったことも、アテナの聖闘士たちの手柄ではない。 それは瞬も承知していた。 ただ瞬は、希望以外に何も持たずに生きてきた人間として、希望の価値を貶められることに耐えられなかったのである。 お世辞にも“恵まれている”とは言えず 他に何も持たないアテナの聖闘士にとって、希望は常に唯一の力。 どんな宝石よりも価値あるものだったから。 いつも控えめで大人しく穏やかだった瞬の意想外の剣幕に、公爵は少なからず驚いたようだった。 否、もしかしたら彼は、一歩も譲らない声音で告げる瞬の瞳に にじむ涙に 面食らっていたのかもしれない。 「僕は、死の瞬間にも希望を捨てない。絶対に捨てない。希望を抱いて死んでいく。必ず そうするつもりです……!」 「瞬……」 清らかで可憐なだけの か弱い花と思っていた瞬の 思いがけない厳しさに圧倒され、自失しているようだった公爵が、やがて 憑き物が落ちたような顔になり、そして、 「……強いんだな」 と、短く瞬に呟く。 その呟きに触れて我にかえった瞬の胸中に、ふいに 激した自分を恥じる気持ちが胸中に生まれてきて、瞬は心もち瞼を伏せた。 「そうでないと生きていけないから……。誰だってそうです」 「誰でも瞬のように強いわけではないだろう。瞬は強くて優しい。こんなに小さくて華奢なのに、何という強さだ」 公爵から 彼は、諦観が作る虚ろな笑みではなく、真面目な笑みを その目許に刻んだ。 「私が私の命を諦めることは、そのまま母の命を諦めることにつながる。私は、冷静な大人の振りをして 諦めるわけにはいかなかったのに」 「ええ。ええ、そうです……!」 諦めることをやめてくれた公爵が嬉しくて、瞬が 瞳を涙で濡らしたまま、笑顔を作る。 公爵は、そんな瞬の様子を見て 目を細めた。 これまでとは違う音を響かせて運命の歯車が回り始めたのは、その時だった。 瞬もヴィノグラード公爵も、その時には その事実に気付かなかった――知らなかった。 その時、その事実を知っていたのは、瞬を恋する もう一人の男だけ。 青い瞳で遠くから二人を見詰めている もう一人の男だけだった。 |