「どーすんだよ! おまえが いつまでも ぐずぐずしてるから、どこの馬の骨とも知れない男に瞬を取られることになっちまったんだぞ!」
そんな場面を見てしまったことを氷河に言えるわけがない。
自分が見てしまったことを、もちろん星矢は氷河には言わなかった。
だが、天馬座の聖闘士が朝から怒髪天を衝いている訳を、氷河は既に知っているようだった。
知っているようなのに、
「ロシアで代々続いた由緒正しい公爵家の当主様だそうだ。俺より出自は確かだろう」
などということを言ってしまう氷河の神経が、星矢には全く理解できなかった。
「おまえ、なに、そんな悠長なこと言ってんだよ!」

瞬は自室に閉じこもったまま出てこない。
公爵は自分の身分を忘れたかのように――貴族の家の小間使いさながら、二人分の食事を瞬の部屋に運び、そのまま昼が過ぎても瞬の部屋から出てこない。
それでも 取り乱す様子も見せない氷河に、星矢の怒りは頂点に達しかけていた。
「由緒正しい公爵様? なに言ってるんだ。あんなのは ただの馬の骨だっ。瞬がこれまで どんな つらい思いをして生きてきたのかも、厳しい修行に耐えて聖衣を手に入れたことも、命がけの熾烈な戦いを戦い抜いてきたことも知らない男なんだぞ。瞬を何にも知らない奴なんだ。そんな奴に瞬を取られて、おまえ、悔しくないのかよ!」
瞬と公爵が一つの部屋にこもって チェスやオセロゲームに興じているというのなら、星矢とて、瞬が仲間を仲間外れにしていることも、たった一日だけのことなのだと我慢しないでもない。
だが、そうではないのだ。
この一日が、これからの瞬のすべての時間を支配しかねない。

「……共に戦うことはしなくても、瞬が優しく善良な人間だということは、誰にでもわかるということなんだろう。すべての人に際限がないほど強く深い愛情を抱いていることも、底がないほど澄んで清らかな心を持っていることも、果てがないほどの優しさを備えていることも――共に戦ったりしなくても、わかる者にはわかるだろう」
「あいつは わかってるって? だから、瞬を取られても仕方ないって、おまえは そう言うのかよ!」
公爵の振舞いに腹を立てないばかりか、公爵を弁護するようなことを言ってのける氷河の態度が、公爵その人よりも 星矢を苛立たせる。
全身の血を頭に集めて、いっそ見事と言いたくなるほどに怒りの感情を具象化させている星矢に、紫龍は困ったような顔を作り、向けることになった。

「星矢。何をそんなに いきり立っているんだ。氷河が激昂するならわかるが」
「氷河じゃなくたって……! 瞬を、仲間じゃない奴に横から かっさらわれたんだぞ! おまえは悔しくないのかよ!」
「それは……俺も、いずれは瞬は氷河と落ち着くことになるのだろうと思ってはいたが」
「だろ! それが筋ってもんだろ! それが当たり前の人の道ってもんだ!」
「そうなるだろうと思っていたし、そうなってほしいと思っていたのも事実だが、こればかりは仕方がないだろう」
「何が仕方ないんだよ!」
「瞬は、あの男に強要されたわけではないし、心変わりをしたわけでも、氷河を裏切ったわけでもない」
「瞬は俺たちを裏切ったんだ! 瞬は瞬の仲間でない奴を自分のいちばんにしたんだ! これが裏切りでなくて何だっていうんだよ!」
「おい、星矢……」
星矢の気持ちも微妙に屈折している
今 星矢を支配しているのは、独占欲・所有欲というより、共有欲とでもいった方がいいような奇妙な感情のようだった。

「紫龍の言う通り、これは仕方のないことだ。瞬はあの男が好きなんだ」
淡々とした声で、氷河が星矢の怒りに更なる燃料を与えるようなことを言う。
氷河は もしかしたら、憤ることが許されない自分の代わりに、自分の分も星矢に腹を立ててもらいたいと思っているのではないかと、紫龍は疑ったのである。
そうなのであれば、氷河は期待通りの成果を得ることができたといえるだろう。
「あっさり言うなっ!」
他人の身に起きた不運な出来事を語るように 冷静な口調で そんなことを言う氷河に、星矢の怒りは更に増大したようだった。
だが、これ以上、星矢を憤怒の河に浸らせておくことはできない。
怒りの感情が小宇宙と同じように 無限に強まり広がるものなのかどうかは紫龍も知らなかったが、これ以上の怒りを その心身で具象化し続けていたら、星矢の脳の血管が危ないことになる。
そもそも星矢が腹を立てても、事態が好転するわけではないのだ。

「星矢」
怒りで周囲が見えていない星矢の名を呼び、紫龍が、もう一人の仲間の姿を見るように、その視線で星矢に示す。
紫龍の指示に従って初めて、星矢は気付くことになったのだった。
怒りと興奮で顔を真っ赤にしている天馬座の聖闘士とは真逆に、氷河の頬は真っ青だった。
握りしめた二つの拳は血が引いたように白く、そして小刻みに震えている。
憤っているのか、悲しんでいるのか、それとも ただ苦しいだけなのか。
いずれにしても、この事態に氷河が衝撃を受けていることは明白だった。
その様を見て、それまで肩で息をしているようだった星矢は、通常の呼吸方法を思い出したらしい。
そして、今となっては氷河をいくら責めても何の益も生まれてこないのだという事実も。

「この愚図! よその男に瞬を取られてから腹を立てたって、後の祭りなんだよっ!」
捨て台詞のように そう言って、星矢が大股でラウンジを出ていく。
そんな星矢を見送ってから、紫龍は、容赦なく仲間を責め立てていた仲間の弁護に及んだ。
「“よその男”か。まったく、その通りだな。星矢の気持ちもわかるぞ。おまえはなぜ、もっと早く行動を起こさなかったんだ」
それは、全く氷河らしくない振舞いだった。
少なくとも、紫龍が見知っている氷河の振舞いではない。
『そうしなければならない事情があるのなら、聞いてやるぞ』と、紫龍は水を向けたつもりだったのだが、氷河は 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に対して 沈黙を守り続けた。






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