沙織の帰国予定日。 今となっては、アテナが今日 帰ってこようと 1年後に帰ってこようと同じこと。 待ちに待っていたはずの この日を最悪の気分で迎えた星矢は、何をする気にもなれず、ラウンジの3人掛けのソファに横になり、今日 ここで何が起こるのかを ぼんやりと考えていた。 そこに、紫龍が1台のノートパソコンを抱えて、急ぎ足で入ってくる。 「レフ・ヴィノグラードフ公爵の その後がわかったぞ」 紫龍のその言葉に、星矢は脱力しきってソファに横たえていた身体を 勢いよく撥ね起こした。 「あのにーちゃんの その後がわかった !? どうやって !? 」 星矢が尋ね終える前に、紫龍が持参のノートパソコンをラウンジのセンターテーブルの上に置く。 ディスプレイに映し出されているのは、日本語のページではなくロシア語のページだった。 「瞬を他の男に取られかけているのに 氷河が何の行動も起こさないのには 何か事情があるのではないかと思って、奴を探っていたんだ。図書室のパソコンで氷河が閲覧したサイトの履歴の中に、ロシア国立図書館の資料を閲覧した履歴があって、そこにちゃんと記録が残っていた。古い文献の画像データだったんで、検索しても引っかからなかったんだな」 「氷河が行動を起こさない事情? いや、んなことはあとでいいや。あのにーちゃん、助かるのかっ」 仲間の手から瞬を奪っていった極悪人。 星矢はそれでも、彼に生きていてほしいらしい。 少なくとも、死んでもいいとは思っていないらしい。 紫龍は微かな笑みを浮かべて、問題の資料が映っているパソコンのディスプレイを 星矢の正面に合わせて向きを変えた。 ロシア語のヒヤリング、スピーキングは何とかなっても 読み書きは からきしの星矢が、その画像を見て顔を歪める。 「古いロシア語のサイトだからな」 星矢の顔を立てるために そう言って、紫龍は そこに書かれている内容を日本語で星矢に説明し始めた。 「結論からいえば、レフ・ヴィノグラードフ公爵は処刑されていない。ヴィノグラードフ公爵が皇帝の政策を支持していたことを ピョートル大帝が知っていたのか、軍事の才能を買われたのか、そこのところは定かではないが、ともかくアレクセイ皇太子の罪への連座を免れて、レフ・ヴィノグラードフ公爵は母親と共に生き延びている」 「ほんとか!」 星矢の声が弾む。 それは、邪気の全くない、純粋に喜びだけでできている声だった。 そんな星矢を好ましいと思いつつ、だが 紫龍は 星矢のようにヴィノグラードフ公爵の生存を喜んでばかりもいられなかったのである。 「ただ……」 「ただ?」 「ヴィノグラードフ公爵家が代々続いた名門中の名門というのは事実で、アレクセイ皇太子の罪への連座を免れたあと、レフ・ヴィノグラードフ公爵は それこそ とんとん拍子に出世街道を駆けあがっている。大北方戦争がロシアの勝利で終わった時には海軍元帥の地位にあった。ピョートル大帝は徹底した能力主義者で成果主義者だからな。生涯を戦争で明け暮れた大帝の懐刀として、レフ・ヴィノグラードフ公爵は大帝に重用されていたようだ。治める領地も拡大を続け――だが、どうも彼は生涯 妻を迎えなかったらしい。それで、彼の代で ヴィノグラードフ公爵家は断絶しているんだ。幾多の勝利の恩賞として彼が得た公爵家の広大な領地は、彼の死後、皇室に返還され、皇帝の直轄領になっている。だから、アレクセイ皇太子の事件以降 ヴィノグラードフ公爵家の記録が途絶えたように見えていたんだ。アレクセイ皇太子の罪に連座して処刑されたミハイル・カシヤノフやヴァシーリー・スースロフには子孫がいて、彼等の家自体はロシア革命まで続いているんだが、ヴィノグラードフ公爵家は――」 「家が断絶した……?」 たとえばフランス革命やロシア革命、国のあり方が根本から変わる大変革が起きたわけでもないのに、絶大な権力と財力を有する名家が断絶する事情というのが、星矢には すぐには思いつかなかった。 日本国でも、たとえば徳川政権7代将軍家継が男子を残さずに早世した際には、紀州徳川家から吉宗を養子に迎えて徳川宗家は存続している。 幕末・明治維新という激動の時代にも、会津藩では、7代藩主容衆の跡を継いだのは養子の容敬、容敬の跡を継いだのは、またしても養子の容保。 明治新政府が政権を奪った徳川家、明治新政府に最後まで抗い続けた会津松平家は、共に現在も存続している。 有力な家の断絶というものは、その当主が意図して行なうのでない限り、そうそう実現することではないのだ。 「1735年に母親が病死。その2年後に彼も亡くなっている。彼は彼の世界に帰ってから、17年間生き続けたということだな」 「17年あったら――」 17年という時間があったなら、家の存続のための方策はいくらでも練ることができたはずである。 できることはいくらでもあり、そのための時間もあったのに そうしなかったというのなら、公爵は家の存続を望んでいなかったということになる。 いったい彼はなぜ、彼にできることをしなかったのか。 その理由を考えることは、星矢には あまり楽しい作業ではなかった。 星矢の気持ちを察したように、紫龍の声も 抑揚のない沈んだものに変わっていく。 「当時のロシアで、ヴィノグラードフ家ほどの大貴族の当主が妻を迎えないというのは異例のことだ。政略結婚が普通の時代だし、彼の地位や経済力、名声や才能を考えれば、彼は 皇女や他国の王女を妻にすることもできただろう。彼は、へたな大公や小国の王子などより強大な力を持っていたわけだしな。これは 俺の推察だが――」 「にーちゃんは、一生 瞬だけを思って生きた?」 星矢の推察は紫龍のそれと同じものだったのだろう。 紫龍は仲間が披露した推察を否定も肯定もせず、 「幾つもの戦線での活躍を見る限り、彼に健康面での問題があったとは考えられず、容姿も並み以上。彼は、彼の人生を彼の意思で決めることができたんだ」 と、答えになっていない答えを口にしただけだった。 ふいに、ラウンジのドアに何かがぶつかったような音がする。 それは、身体の重心のありかを見失い倒れそうになった瞬の肩が ラウンジのドアに当たった音だったらしく――星矢がドアを開けると、そこには公爵に身体を支えられて かろうじて倒れずにいる、真っ青な頬をした瞬の姿があった。 「瞬……」 それは運命の皮肉といっていいような事態だった。 母子共に生き延びることができるとわかってしまったために、レフ・ヴィノグラードフ公爵は元の世界に帰らなければならなくなってしまったのである。 公爵が元の世界に帰れば、歴史が示す通りに、彼の母の命は救われるだろう。 だが公爵が帰らなければ――歴史が本来の流れに戻らなければ――公爵の母の命は助からないかもしれないのだ。 |