沙織が――女神アテナが城戸邸に帰着したのは、その日 それから まもなく。
紫龍は彼女に、個々人の感情や希望に関することは告げず、ヴィノグラードフ公爵の身に起こった不思議な事象と、歴史的事実だけを報告した。
彼女は、彼女の聖闘士とヴィノグラードフ公爵の間に、報告されたこと以外にも何かが起きたことを察したようだったが、そういったことには一切触れなかった。
「では、元の衣服に着替えて、最初に この時代に現れた場所にいらしてください。お母様のことが ご心配でしょう。すぐに お母様の許に戻してさしあげます」
と言っただけで。

アテナが“正しい答え”を採択するのは当然のことである。
それ以外に 彼女に採るべき道はない。
瞬にも、公爵にも――誰にも それはわかっていた。


「やはり私は、私の時代で 私の人生を生き続けなければならないようだ」
黒い膝丈の絹の胴着、くるぶしまで届く長いビロードのカフタン、臙脂色の帯には青銅の鞘の剣。
公爵は、18世紀のロシアの貴族の姿に戻っていた。
「私は 帰らなければならない。だが、この身は君から遠く離れたところにあっても、私の魂は永遠に君に寄り添い続ける」
公爵の出で立ちは、この世界この時代というより、緑したたる初夏の庭には ひどく不釣り合いで、その違和感異質感が 瞬の瞳を悲しく暗く沈ませているようだった。

アテナは“正しい答え”を実行する。
瞬も公爵も その時のための覚悟はしていたのだろう。
二人は驚くほど冷静だった――星矢の目には、そう見えた。
瞬が 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちを排し、公爵と二人で部屋に閉じこもっていたのは、その覚悟を決めるためだったのではないかと思えるほどに。

「だめ。帰ったら、僕のことは忘れて、誰かと恋をして、レフ・ヴィノグラードフ公爵は幸せになるの」
瞬が泣かずに そう言うだけでも立派なものである。
たとえ、流せるだけの涙を既に流し尽くしたあとなのだとしても。
「無理だ。瞬は一人しかいない――私の時代にはいない。それに――」
公爵も、ひどく苦しげにではあったが微笑していた。
彼は、おそらく瞬のために。
「私が瞬だけを思って生きるのは、歴史的事実のようだ」

だから、星矢は油断していたのである。
別れを余儀なくされる恋人たちの やりとりを、アテナは聞こえていない振りをしている。
瞬はもはや泣いてはおらず、それは公爵も同様。
そして、氷河は この場にはいない。
すべてのことは“正しい答え”が実行される その瞬間に向かって粛々と進んでいる。
星矢は油断していた。
このまま静かに“正しい答え”は実現される――実現されるしかないのだと。
だが。
「では」
その場にいる者たちに、その時が来たことをアテナが知らせた途端、瞬の緊張と忍耐に限界がきたらしい。
その場にアテナがいるというのに、瞬は突然 公爵の胸に飛び込み、しがみつき、母親との別れを強いられた幼い子供のように 声をあげて泣き出してしまったのである。

「僕も行く! 僕も一緒に行く……!」
そうならないように――そうなりかけた時には その前に瞬を止めるために――身構えていたつもりだった星矢は、一瞬 出遅れることになった。
そのせいで星矢は、アテナの前で瞬を叱責しなければならなくなった。
「瞬っ! おまえ、自分を何だと思ってるんだ! おまえはアテナの聖闘士なんだぞ! 奴が奴の時代の奴の命を生きなきゃならないように、おまえはおまえの人生を生きなきゃならないんだ、ここで!」
瞬は、こんなに脆い人間だったろうか。
瞬は、アテナの聖闘士たちの中で最も強く明瞭に アテナの聖闘士の戦いの意味と目的を知っている戦士だったのに――。
瞬を怒鳴りつけながら、その実 星矢は、瞬を こんなふうに変えてしまった公爵にこそ怒りを覚えていた。
あからさまにできない その怒りに突き動かされて、公爵にしがみついている瞬の腕と指を 力づくで引きはがそうとする。
そのためにのばされた星矢の腕を静かに押しとどめたのは、今 星矢を憤らせているヴィノグラードフ公爵その人だった。

そうして、彼は 泣きじゃくる瞬の肩と身体を抱きしめた。
繊細で壊れやすい やわらかな宝石を、そっと包み守るように。
そして、その美しい宝を手放すために。
「もう一度……必ず――奇跡が……はずがない」
公爵が 瞬の耳許で 何事かを低く囁く。
途切れ途切れにしか聞こえてこない その言葉は、瞬の心を慰撫するどころか、悲しませることしかできなかったらしい。
瞬の瞳から、また涙があふれ出す。
だが、その悲しみは、瞬に“間違った答え”を思い切らせることはできたらしい。
瞬は 切なげに首を横に振り、やがて公爵の側を離れた。
自分から。
そんな瞬を、瞬より切なげな目で 公爵が見詰める。
恋した人の面影を、心に刻み込むように。

それから彼は、星矢を見、紫龍を見、最後に その場にいない氷河の姿を探すように、この10日間 彼が生活の場としていた建物を振り仰いだ。
2階にある窓の一つに もう一人の瞬の仲間の姿はあったらしい。
そこから氷河が、まもなく この世界から消えていく男と、その男が恋した人の姿を見おろしていることを確かめ、公爵は 羨望と苦渋が入り混じってできたような表情を浮かべた。
これからも瞬と同じ世界で生きていくことのできる氷河を、公爵は 羨み憎んでいるのかもしれなかった。

「瞬には瞬を心から思ってくれる仲間がいる。だから、私は安心して 元の世界に帰っていくことができる」
それが、レフ・ヴィノグラードフ公爵が この世界で口にした最後の言葉だった。
次の瞬間、この世界からレフ・ヴィノグラードフ公爵の存在は消えていた。
その場に崩れ落ちそうになった瞬の身体を支えたのは星矢と紫龍の手で、彼等は レフ・ヴィノグラードフ公爵が最後に告げた言葉の真意を彼に尋ねることはできなかった。
公爵が、瞬の仲間たちに――星矢と紫龍、そして氷河に――本当は何を願っていたのかを。






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