「忘れな草だ!」 聖域の外れに咲く、それは何ということもない野草だった。 ただし、聖域では 花をつける野草自体が珍しい。 土が乾燥していて 地味も豊かとは言えないため、聖域で見られる自然の植物は 相当の生命力を有する雑草ばかり。 黄金聖闘士の守護する処女宮や双魚宮の奥には 人の手に成る花園があるという話だったが、一介の青銅聖闘士である瞬は、それらの場所に足を踏み入れたこともなかった。 もっとも今は、数百年に一度 巡ってくる冥府の王ハーデスとの聖戦の時期に当たっていないせいか、聖闘士の数自体も少なく、黄金聖闘士の存在も二名しか確認されていないらしい。 処女宮と双魚宮は 共に守護する黄金聖闘士のいない無人の宮で、もし それらの宮の奥を見る機会に恵まれたとしても、そこにあるのは花園ではなく 人の手が行き届かずに荒れ果てた廃園である可能性が高かった。 そういう土地柄の聖域では、花を見ること自体が稀である。 アテナイより西にあるイピロスの牧畜地帯にある村出身の瞬には、それは、2年前に生まれ故郷の村を出て聖域にやってきてから初めて見る“花”だった。 気まぐれな風か鳥が どこからか種を運んできたのだろうか。 切り出された大理石が あちこちに転がっている石切り場の岩の陰に、1輪だけ咲く花。 鮮やかな青色の小さな花は、真夏の晴れた空の一角を切り取ってできた宝石のようである。 途轍もなく貴重な宝を発見した幼い子供のように瞳を輝かせ、瞬は 花の側に駆け寄った。 青い宝石のような花から目を逸らさず――同行者の方を振り返らず――同行者に、 「この花、どうして 忘れな草っていうか 知ってる?」 と尋ねる。 二人きりになるために わざわざ人気のない聖域の外れまで足を運んできたというのに、思わぬ邪魔者に出会い――というより、想定外の先客に出会い――あまり機嫌が よろしくなかったのか、氷河からの返事は、極めて素っ気なく短いものだった。 「知らん」 と、一言だけ。 氷河の不機嫌の訳を察した瞬が、氷河の方に向き直る。 忘れな草の傍らに転がっていた大きな岩をベンチ代わりにして腰掛けると、瞬の視線は 氷河のそれと同じところまで高くなった。 「今はブランデンブルク辺境伯とドイツ騎士団が合併して ブランデンブルク・プロイセン公国を名乗り、一応 国らしき体裁を整えてはいるけど、あの辺りがまだ本当に小さな領邦国家しかなかった頃に、ルドルフっていう名前の騎士が ドナウ川の岸辺に咲いていた この花を見付けたんだ。彼は その綺麗な花を恋人のために摘もうとしたんだけど、どうした弾みか、足を踏み外して 川に落ちてしまった。その時に彼は この花を岸にいる恋人の方に投げて、『私を忘れないでくれ』って言い残して 川の流れに呑まれてしまったんだって。残された恋人は、ルドルフの最期の言葉を この花の名にしたんだ。とっても綺麗で可愛い花なのに、悲しげに見えるのは そのせいかな」 ドイツ語を公用語とするヨーロッパ中部の広い一帯は、一応は神聖ローマ帝国という一つの連合国ということになっている。 しかし実際には、 それぞれが主権を持つ小さな領邦国家が乱立し、自国の益を守るために汲々としているばかりで、神聖ローマ帝国は国としての機能を果たしてはいない。 小国も手を取り合って協力し合えば、大きな事業を成すことができるのは自明の理。 にもかかわらず、各国の主君たちは自らの主権が失われることを恐れ、決して積極的な行動に出ようとはしない。 現在の そういった ヨーロッパ中部地域の混乱と衰退は、当事国の国民のみならず、その周辺国家にも 好ましくない影響を及ぼしていた。 「氷河、どうかしたの。僕の話、聞いてる?」 悲しい恋物語に心を動かされた様子もなく 難しい顔をしている氷河を訝った瞬は、その訳を恋人に尋ねたのである。 恋人からの返事は、 「ヨーロッパ中部のあの辺りが強力な主権を持った秩序ある統一国家になってくれれば、あらゆる分野での生産力が増すことは、読み書きのできない農民にもわかることなのに――。神聖ローマ帝国なんて、立派なのは名前ばかり、ブランデンブルク・プロイセン公国も 遠からず解体することは目に見えている。小国ばかりが乱立している今の状況はどうにかならないものなのか……。一人や二人、民族的統一を果たそうという気概を持つ者が出てきてもいいと思うんだが――」 という、悲しい恋人たちへの同情のかけらもないもの。 「もう、僕の話、全然 聞いてない!」 美しく健気な花の物語より、その花の出身地の住人たちが作り出している混乱の方が、氷河には より重要、より憂うべき事態であるらしい。 だが、自分では動くことのできない花とは違って、世俗世界の混乱は 人間が自分たちの力でどうにかできるもの――どうにかすべきもの。 それは、世俗の外にある聖域の聖闘士が考えるようなことではない。 聖闘士が考えるべきことは、この乾いた地に健気に咲いている花、この世界に生きている一人一人の人間の幸福だけである――というのが、瞬の考えだった。 考えるべきではないことを考えている氷河に拗ねて、瞬は 口をとがらせたのである。 「そんな世俗の政治のことに聖闘士が興味を持つのはよくないよ。聖域が世俗の権力と関わり合いを持つのは厳禁。以前、アテナが降臨していない時に、世俗の権力と聖域の力を結ぶ計画を立てた教皇がいて、その時には 聖域の秩序が乱れて大変なことになったっていう話を聞いたことがあるよ」 「まあ、ただでさえ政教分離は難しいことだというのに、全く別口の神を奉じる聖域と世俗の権力の協力なんて、土台 無理な話だしな」 「もう。そうじゃなくって!」 そんな話をしたいのではないし、そんな話をした覚えもない。 瞬は、自分とはまるで違うところを見ているらしい氷河の顔を睨みつけた。 瞬に睨まれても あまり脅威は感じなかったのか、氷河は 瞬の睥睨に神妙な顔になるどころか 逆に表情を和らげて、岩のベンチに座っている瞬の腰に両手をまわしてきた。 「ちゃんと聞いてる。俺は、おまえの その唇が発した言葉は一字一句 洩らさずに憶えているし、おまえの一挙手一投足は どんな小さな動きも見逃さずに見ている」 「嘘ばっかり」 たった今、時刻を尋ねた者に 自分の名を答えるような真似をしてくれた氷河が、どの口で そんなことを言うのか。 瞬は軽く身をよじって、自分の腰に絡んでくる氷河の手を嫌がってみせたのだが、氷河は そんなことには気付いていない振りを装って、その手を外そうとはしなかった。 逆に、その顔を瞬の顔に近付けてくる。 「嘘など言うものか」 「じゃあ、今 僕が何を話してたか、言ってみて」 「察するに、ドイツ騎士団の結成当初の頃だな。戦闘中の事故でもなく、誰かを助けるためでもなく、自らの馬鹿げた過失のために死ぬ羽目に陥ったドジな騎士が、死に際して、残される恋人に『俺を忘れるな』という我儘を言った話だろう。実に思い遣りに欠ける言葉だ。そういう時は、『俺のことは忘れて、新しい恋を見付けろ』と言うのが正しい」 「……」 全く耳を傾けていないようだったのに、氷河は その申告通り、本当にちゃんと恋人の話を聞いていたらしい。 瞬は 拗ねるのをやめて、わざと脇に逸らしていた視線を氷河の上に戻した。 「そんな……。思い遣りに欠けるなんて、ちょっと手厳しすぎるよ。その騎士は、自分のことを忘れないでいてほしいって言っただけで、一生 自分だけを思っていろって、恋人に命じたわけじゃないんだし」 「命じてはいないが、それを望んでいたことは事実だろう。しかも、自分勝手な その望みを恋人に知らせて、死後も恋人を自分に縛りつけておこうとした」 「忘れないでって言った その時には、彼は まだ生きてたんだよ。『私を忘れないで』っていう言葉は、死なずに戻ってくるから それまで待っていてくれっていう意思表示だったのかもしれない」 「人を悪く言いたくない おまえの気持ちはわかるが、その解釈には無理がありすぎるな」 瞬の弁護をはねつけて、氷河が冷酷に断じる。 浅慮ではあったかもしれないが、少なくとも悪意はなかった(はずの)騎士のために、瞬は弁護を重ねた。 「それは そうかもしれないけど……。でも人間って、いつだって、自分の愛する人に 自分を思っていてほしいと願うものでしょう。自分が死んでしまってから、生き残った人の悲しみを見て初めて、自分を忘れて幸福になってほしいと思うものなんじゃないかな」 「生きている間は、自分の幸福優先か」 何百年も昔の時代を生きていた人間の我儘、会ったこともない騎士の浅慮に 本気で腹を立てているらしい氷河の心を 和らげるために――氷河に非難されている騎士のためというより、氷河のために――瞬は微笑を作った。 「たった一人で あとに残されることになる恋人の身を案じる氷河の気持ちは わかるけど、人って そんなものなんだよ、きっと。生きているうちから、死んだあとの覚悟をしている人なんて、本当に死と背中合わせで生きているような人たちだけで、そういう人間は ごく一握り。その一握り以外の人間の一人が あとに残される恋人の負担になって苦しめることになるかもしれないっていう可能性に考えを及ばせられずに、咄嗟に 自分の願いを口にしてしまっただけ。人は そう立派なものじゃない」 「しかし、騎士団の騎士というのは、一応 戦いを生業とする者だろう。そんな男が――」 「僕たちアテナの聖闘士だって……もちろん、いつでもアテナと地上の平和のために命を投げ出す覚悟はできてるけど、明日の自分の姿を思い描く時、死んでいる自分の姿なんて考えないでしょう?」 「それは もちろん、俺だって、おまえとナカヨク生きている自分しか考えないし、考えたくもないが……」 「そういうこと。騎士だから、アテナの聖闘士だからなんてことは、あんまり関係なくて――恋している人間なんて、誰だって そんなものだよ。幸せな明日のことしか考えてないの」 こういう理屈でなら 氷河も説得されてくれるだろうと、瞬は思っていたのだが、それでも氷河は完全に腑に落ちた顔にはならなかった。 不機嫌そうに、得心しきれない不満を 青い瞳に にじませている。 瞬は結局、氷河を説得するのを諦めて話の方向を変えた。 氷河に嫌われたままにしておいても、3、400年も昔に亡くなった騎士ルドルフが実害を被ることはないのだ。 |