「氷河は その時、どう言うの。僕を残して死んじゃう時」
最も効率的に ある人間の中に生まれた不愉快な気持ちを消し去るには、より不愉快な話題を持ち出すのが いちばん。
氷河は『そんな縁起でもない話はやめろ』と応じてくるものと、瞬は思っていたのだが、案に相違して、氷河は真顔で、
「『俺を忘れろ』――かな」
と答えてきた。
その答えが、今度は、瞬を少し不愉快にする。
「氷河に そんなことを言われたら、僕は、『僕に氷河のことを忘れろなんて言うなんて ひどい』って思うかもしれないよ」
「そうか? なら――まあ、俺も未熟な人間だから、やはり 俺を忘れないでくれと言ってしまうかもしれんな」

それは、人への好悪の感情や言動の是非の判断を明確に示すことの多い氷河にしては珍しく、どっちつかずの日和見な答えだった。
意外な気持ちで、瞬は氷河に再度 問うことになったのである。
「『忘れろ』と『忘れるな』、どっちなの」
「できれば、その時 おまえが望んでいる方の言葉を残したい」
どちらがいいか、瞬に決めろと言っているも同然の氷河の答え。
だが、その答えに瞬が気分を害することはなかった。
無責任の極みにも思えるが、それは残される人の幸福を願うからこそ出てくる言葉である。
人は 自分が幸福でいるか いないかということには責任を持つことができるが、たとえ恋人でも、自分以外の人間の幸福には責任を持てない――持ちたくても、持てない。
人間の幸福というものは、それほどまでに当人の主観によって成るもの――当人の主観が決定するものなのだ。

瞬が、氷河のその答えに微笑を返す。
氷河は、自分の出した答えを恋人が気に入ってくれたことに満足したのか、それで機嫌を直したようだった。
というより 彼は、何百年も昔の騎士の振舞いなど 自分にはどうでもいいことだという事実――今の自分たちの恋には いかなる影響も及ぼさないという事実――に 今になって思い至ったのかもしれない。
瞬が、そんな氷河の顔を見詰め返す。
30秒が経たないうちに、何も言わずに にこにこしている瞬が その恋人に何事かを期待していることに、氷河は気付いてくれたようだった。
もっとも 瞬は、その上で、
「なんだ?」
と、問うてくる氷河に 少々気が抜けてしまったのであるが。
いつもの氷河なら、こういう時、彼の恋人が何を期待しているのかを察し、さっさと行動に出てくれているはずだったから。
いつになく察しの悪い氷河を、むしろ瞬は怪訝に思ったのである。
とはいえ、それは責めるようなことでもないので、瞬は 素直に 氷河に問われたことに答えを返した。

「僕ならどう言うのかって、訊いてくれないの」
「訊かなくてもわかっている。おまえは俺に、自分のことは忘れろと言う」
「え……」
氷河が『おまえなら どうするんだ』と瞬に問うてくれなかったのは、彼の察しが悪いからではなく、あえて尋ねるまでもなく、彼が その答えを知っていたから――だったらしい。
それか正しい答えだったので、瞬は氷河に頷いた。
「多分ね。僕の最期のお願いなんだから、氷河、必ず叶えてね」
察しが悪いのは――勘が鈍っているのは――今日は むしろ瞬の方だったのかもしれない。
てっきり すぐに頷き返してくれるものと思っていた氷河が、想定外の渋面を瞬に向けてくる。
「約束はできないな。その時、俺には、そんな約束を叶えるための時間は残っていないだろうし」
「え?」

『時間が残っていない』とはどういうことなのか。
氷河の言う言葉の意味がわからない。
本当に自分は勘が鈍ってしまったのかと、瞬は自分自身を訝ることになったのである。
その時、なぜ氷河に時間が残っていないのか。
瞬が その答えを考え 行き着く前に、氷河当人が彼の事情を瞬に説明してくれた。
「俺が死んでも、おまえは懸命に生きていこうとするだろう。そして、アテナの聖闘士としての務めを果たそうとする。だが、おまえが死んだら、俺は生きていられない」
「氷河……」

自分は 地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士である前に、恋人の存在なしには生きていられない一人の男だと、氷河は言っている。
非難の響きを含んだ声で 瞬が氷河の名を呼ぶことになったのは、瞬が『アテナの聖闘士は 何よりもまずアテナの聖闘士であるべきだ』という考えの持ち主だからではなかった。
瞬はただ、どんな時にも氷河には生きていてほしかったのである。
たとえ恋人が死んでも、氷河には 生き続けるための努力をしてほしかった。
幸い、瞬は、そんなことを くどくどと氷河に言い聞かせるようなことはせずに済んだ。
――というより、そうすることができなかった。
他でもない、恋人の存在なしには生きていられないと告げる氷河の、
「だから、おまえは俺より先に死ぬことは許されない。俺を生かしておきたかったら、何があっても、まず おまえ自身が生きていてくれ」
という言葉のせいで。
結局のところ、氷河が本当に望んでいるのは、二人が共に生きていることなのだ。
「うん……」
氷河の望みが それであるならば、瞬は素直に彼に頷くことができた。

『おまえがいなければ、俺は生きていられない』
そんな言葉を恋人に言ってもらえたなら、素直に喜び感激していればいいのだ――とは思う。
自分は、一人の人間の恋人としては かなり融通のきかない頑迷な人間なのだろうとも思う。
氷河が ただ恋人を喜ばせるためだけに軽い気持ちで そんなことを言う人間だったなら、瞬とて素直で無邪気な恋人でいることができるのだ。
だが氷河はそういうタイプの人間ではないので――彼は いつも本気で真剣なので――瞬は、氷河の前では、恋に酔うことが下手な慎重な人間でいないわけにはいかなかったのである。
その代わり、瞬は、やたらと恋人に触れ絡みたがる氷河の手指や唇には寛容でいることにしていた。
そのあたりのことは よく心得ている氷河が、瞬の髪と瞼に 指と唇で触れてくる。

「ああ、そうだ。俺は明日から 星矢たちと、その忘れな草の故郷に行くんだ。ドナウ源流のあるシュヴァルツヴァルト。そこに、前回の聖戦の時 ハーデスが地上での拠点として使っていた城の跡があるらしい。前聖戦でアテナが封印した ハーデスの従神のタナトス、ヒュプノスとかいう神の姿を見た者がいるという ご注進があったとかで、俺たちが調査のために派遣されることになった」
「僕は何も聞いてないよ?」
それは、瞬には寝耳に水のことだった。
普段 仲間たちと行動を共にすることが多かった瞬は、なぜ自分が その任務から外されるのかを訝り――否、アテナの伝達ミスを疑って、首をかしげた。
氷河が、そんな瞬に 妙に楽しそうな微苦笑を向けてくる。

「嘘か本当かは知らないが、ハーデスは心の清らかな美少年を見ると、冥界にさらっていく癖があるとかで、そういう逸材の存在に気付くと、長い眠りを中断することもあるらしい。万一、ハーデスの従神たちの出現にハーデスが関係したら、おまえが聖域の結界の外に出て この任務につくのは危険だと、アテナは考えたようだ。それで おまえは今回の遠征メンバーから除外されたらしいぞ」
「また、冗談ばっかり」
「アテナは真顔で言っていたがな」
そう告げる氷河は真顔ではないので――笑っているので――彼の言うことを 今ひとつ真面目に受け取る気になれない。
それでも、アンドロメダ座の聖闘士が今回の遠征メンバーから外されたのは アテナの連絡ミスということではないようだったので、瞬は この場は大人しく引くしかなかった。

「まあ、おまえまで聖域を出てしまったら、聖域の守りが手薄になりすぎる。大人しく、ここで俺の帰りを待っていろ。忘れな草を見付けたら、土産に持ってきてやるから」
「花が枯れちゃったらどうするの。花は、咲いている場所に咲かせておいてあげて。僕には その花の話を聞かせてくれるだけでいい」
「了解。本場の忘れな草は 仮にも騎士に叙されるほどの男が足元の注意を怠って 川に落ちるほど美しいのかどうか、俺が この目で しっかり見極めてきてやろう」
忘れな草の花と同じ色をした瞳に瞬の姿を映し、氷河はそう言って頷いた。






【next】