王宮の庭は建国の日を祝う民衆の声であふれている。
王宮の広間には 貴族、重臣という名の奴隷たちが居並び、『この日を迎えたことを喜べ』というハーデスの命令を、それぞれのやり方で実行していた。
ある者は 意味のない笑顔を作ることで、ある者はハーデスのために杯を干すことで、ある者は ハーデスの偉大さを同僚と語り合うことで。
着飾った女性に言い寄りダンスに誘うことで その命令に従おうとしている者もいる。
黒く厚いカーテンの向こうの玉座にハーデスがいないことを知っていながら、(その本心はともかく)ハーデスの命令に逆らおうとする者は、ただの一人もいない。
そこに来臨していなくても、誰もが ハーデスの尋常ならざる力を知っていて、彼に逆らうことなど思いつきもしないのだ。

きらびやかな衣装に身を包んだハーデスの奴隷たちの様子は、いつ見ても 空々しい虚構じみていて、そういう場にハーデスの特別な奴隷として列席することは、瞬にとっては泣き出したくなるほどの苦痛だった。
いつもなら、そうだったのだが。

「どうかなさいましたか」
瞬の様子がいつもと違うことに気付いたのは、ハーデスの玉座を隠している黒いカーテンの前を定位置にしている瞬の椅子――準玉座とでもいうべき瞬の椅子――の左右に立ち、護衛という名の監視をしている男たちの一人、ヒュプノスだった。
「あ……いえ」
ハーデスの後継者が(その場にいる者たちが 瞬をそういう者として見ていないことは確実なのだが)特定の人物に気を取られていたことをハーデスの側近に知られることは“よいこと”ではないだろう。
そう考えて、瞬は慌てて瞼を伏せたのだが、それは少々 遅きに失した対応だったらしい。
もっとも、瞬が気を取られていた人物の方は、瞬が彼から目を逸らしたあとも瞬を凝視したままだったので、瞬がごまかそうとしなくても、いずれヒュプノスは彼の存在に気付いてしまっていただろうが。

「何者だ」
王宮内では見掛けたことのない金髪の男が、この王宮内では まず見ることのない意思的な瞳で瞬を見詰めていた。
ヒュプノスの呟きに、『今頃 気付いたのか』と言うような口調でタナトスが答える。
「あの辺りにいるのは、外国からやってきた大使や視察留学生たちだ。あの金髪は 今日初めて見る顔だから、察するに ごく最近シェオルに国交開始の打診をしてきた国の者。おそらくヒュペルボレイオスからの留学生か視察使節員だな」 
「ヒュペルボレイオス? 国土の広さ以外に誇るもののない北の辺境国じゃないか」
「だから、我が国の繁栄の おこぼれに預かろうとして、臣下の礼をとり、北の果てから わざわざハーデス様の機嫌取りに来たんだろう」
タナトスはそう言うが、彼の眼差しは卑屈な機嫌取りのそれではない。
この王宮では異質な――どこか反抗的にさえ感じられるほど、現状に憤りを感じている者の目と視線。
だから、瞬は彼に目を留めた――彼から視線を逸らすことができずにいたのだ。

「その機嫌取りが、なぜ瞬様を見ているんだ」
「さあな。清らかだけが取りえの このガキが、奴の好みのタイプなんじゃないのか」
「ハーデス様の後継者である瞬様に、あのような不躾な目を」
「このガキを見ているのは、あの男に限ったことじゃないだろう。このガキがハーデス様の後継者だと信じている阿呆は、この城にただの一人もいないと言っていい。このガキがハーデス様に可愛がられているのだと勘繰って、誰もが こっそり――それこそ恐る恐る このガキを盗み見ている。浅ましい好色な目で」
「恐る恐る盗み見ているのなら問題はない。それは、その下種が ハーデス様を恐れているということだからな。瞬様を直視できない者は、ハーデス様の御前でも 顔を伏せて恐れ入っていることしかできないだろう。しかし、あの男は――」
「実に堂々としたもんだな。まだ見ている。案外、この国に来たばかりで、このガキがハーデス様のお気に入りだということを知らないだけなんじゃないのか」
「たとえ瞬様が どういう方なのかを知らなくても、瞬様は ハーデス様の玉座の前に置かれた椅子に着席しているのだぞ。それが許されるほど特別な方なのだということは、どれほどの馬鹿にでも容易に察することができるはずだろう」
「それほどの馬鹿なんだろ」

ハーデスの後継者と持ち上げながら、その後継者を せいぜいハーデスへの忠誠心(むしろ畏怖心)を測る試験紙程度にしか考えていないらしいヒュプノスの言を不快に感じている時間は、瞬には与えられなかった。
ハーデスの後継者(とされている人間)の背後にあるハーデスの権威を恐れるふうもなく瞬を見詰め続けていた“それほどの馬鹿”が、ふらふらと覚束ない足取りで、ハーデスの後継者が掛けている椅子の方に歩み寄ってきたのだ。
恐れ知らずなのか、本当に“それほどの馬鹿”なのか――。
そして、主君同様 人を人とも思っていないハーデスの側近たちが 彼をどう処するのか。
それを考えただけで、瞬は背筋が凍りついた。

「それ以上 近付くな! 貴様、何者だ!」
ハーデスの力を恐れる様子もなく、ハーデスの後継者の表情をはっきり見てとれるところまで近付いてきた“それほどの馬鹿”を、ヒュプノスが威嚇する。
「ヒュベルボレイオスから来た氷河」
ヒュプノスの恫喝に怯んだ素振りもなく、その視線を瞬の上に据えたまま、“それほどの馬鹿”は問われたことに端的に答えてきた。
目はハーデスの後継者に釘づけになっているようだったが、耳はそうではなかったらしい。
ヒュペルボレイオスから来た氷河の その振舞いに、瞬は微かな引っ掛かりを覚えたのである。
もっとも瞬は、そんな引っ掛かりなど すぐに忘れることになってしまったが。
ヒュペルボレイオスから来た氷河が、立て続けに ハーデスの威光など歯牙にもかけていないような無謀極まりない振舞いをしてくれたせいで。

「そちらの椅子に掛けている清楚で可憐な方はどなたですか」
瞬が何者なのか――城中で どういう者と思われているのかを知らなかったらしく――彼はまず瞬の素性を訊いてきた。
「瞬様はおまえごときが近寄れる方ではない。無礼者! 下がれ!」
「瞬……瞬というのか」
ヒュプノスの二度目の恫喝は、氷河にとっては瞬の名を知らせる親切でしかなかったようだった。
瞬の名を呟き、無礼者の動きを封じようとするヒュプノスの手を すり抜けて、彼は、手をのばせば瞬に触れられるところまでやってきた。
そして、実際に瞬の手を取る。

「はじめまして。ヒュペルボレイオスから来た氷河という。来てよかった。こんなに清らかで美しい目をした人に、俺は生まれて初めて会った」
「あの……」
初対面の挨拶をし、名を名乗り、対峙する人間に世辞まで言えるところを見ると、彼は正気を失った狂人ではないのだろう。
だが、ヒュプノスの威喝をものともせず、ハーデスの不興を買う可能性を考えてもいないような彼の言動は、正気の沙汰とは思えない。
あげく、夢でも見ているような真顔で、
「ぜひ お近づきになりたい。本当に美しい。何という目だ」
と交友(?)を求めてくるに及んでは、完全に狂気の沙汰。
氷河の代わりに瞬の方が、彼に対するハーデスの不興と報復に怯えることになってしまったのである。

「何という図々しさ! 瞬様は、ハーデス様がご自分の後継者として定められた お方だぞ。田舎者が このような身の程知らずの真似をして、ハーデス様のご不興を買ったら、国外退去どころか即日処刑もあり得るというのに――貴様、死の川に投げ込まれたいか!」
腕を掴みあげられ、直接的な脅しを受けても、氷河は一向に怯まなかった。
どういう技を使ったものか、再びヒュプノスの手を外し、更に瞬の側に にじり寄ろうとしてくる。
「えーい、近寄るなというに! 貴様、頭が足りないのか! それとも豪胆なのか!」
ヒュプノスにしては珍しく冷静さを欠いた 上擦り かすれた癇声。
今はむしろ、タナトスの方が冷静だった。

「その二つは両立する。頭が足りないから豪胆なんだろう。実に愉快な茶番だが、そこまでにしておけ、このうじ虫」
言うなり、タナトスが、氷河を瞬から引き剥がすのではなく、瞬を その場から移動させるために動く。
その作業は極めて迅速に行われ、気付けば 黒いカーテンの前にいるのは、氷河の腕を掴みあげたヒュプノスと、目標物を見失って全身から力が抜けてしまったような金髪の異邦人のみ。
掴みあげていた氷河の腕を 忌々しげに振り捨てると、一度氷河を睨みつけてから、ヒュプノスもまた祝宴の場から立ち去ることになったのだった。






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