「この者をいかがいたしましょう」
ヒュプノスが、氷河をハーデスの前に引っ立てていったのは、その夜が明けてから。
氷河が城内で捕縛されたという話を聞き、瞬はその場への同席を求めた。
漆黒のカーテンがおりている玉座の間。
衛兵や侍従たちは室内から締め出され、その場にいるのは、氷河と瞬、ヒュプノスとタナトスの4人のみ。
ヒュプノスが、カーテンの向こうのハーデスに畏まった様子で氷河の処置に関しての指示を求める。
ハーデスはそこにいるのか、ハーデスからの指示はあるのかと、瞬は全身を緊張させることになった。

漆黒のカーテンの向こうにあるハーデスの玉座。
直接、ハーデスの姿を見ることは不敬とされ、実は瞬ですら、これまでに ただの一度もハーデスの姿を見たことはなかった。
時々、そこに本当にハーデスはいるのかと、瞬は疑うことさえあったのである。
人の気配は感じられないのに声だけが返ってくるという場面に、瞬はこれまで幾度か立ち会っていた。
今日も、そこに人のいる気配は感じられない。
だが、答えは返ってきた。

「余の城は、いつからネズミが自由に出入りできるようになったのだ」
激している響きはなく、むしろ穏やかでさえあったのだが、ハーデスの その声、その言葉は、ヒュプノスを震駭させるに十分な力を持っていたらしい。
彼は その全身を(例えではなく本当に)震わせた。
「恋に狂ったものは、常人には備わっていない奇妙な力を発揮することがあるようで――」
「ゆ……許して、放してあげて。この人に悪気や害意はなかったはずです」
ヒュプノスをここまで恐れ おののかせるハーデスの力。
人を人と思っていないヒュプノスやタナトスより更にハーデスは高慢だろう。
ハーデスは、ネズミどころか 飛び回る虻を叩き落とす程度の気軽さで、いかなる罪も犯していない人間の命を奪うくらいのことはしかねない。
ヒュプノスの告発を遮り、瞬は慌てて 恋する不法侵入者の擁護に入ったのである。
もっとも その擁護は、ここは神妙に反省する素振りを見せてほしい氷河の、
「瞬……もちろんだ! 俺に悪意や害意があったはずがない!」
の一言で、台無しになってしまったが。

瞬が自分の味方についてくれたことに浮かれたらしい氷河の声の調子、彼がハーデスの後継者を馴れ馴れしく呼び捨てにしたこと、それらがヒュプノスの神経に障ったらしい。
ヒュプノスによる氷河弾劾の声は、更に激することになった。
「この者には、害意と悪気しかない。この者は瞬様の寝室を探していたと言っています!」
まさかヒュプノスの激昂がハーデスの怒りを殺いだわけもないだろうが、ハーデスの答えは瞬が想像していたものよりは穏便なものだった。
「正直な……。もう少し言葉を飾ればよいものを。まあ、瞬に焦がれる気持ちはわからぬではない。余が選んだ ただ一人の人間だ。氷河とやら、そなた、死にたいのか」
「瞬のために この命を投げ出す覚悟はできているが、どちらかといえば、二人で生きていられる方がいいな。できれば、どんな邪魔も入らないところで、二人きりで」
「ハーデス。彼を解放してあげて。彼は、もうこんなことはしないと約束してくれます。そうですよね」

命が惜しかったら 頼むから これ以上 余計なことは言わないでほしい。
胸中で そう叫びながら、瞬は氷河の言葉を遮った。
しかし、瞬の思いを、氷河はまるで()んでくれなかったのである。
発言を控えるどころか、彼は ますます その図々しさを増すばかりだった。
「俺は、放免されることなど望んでいない。俺を この城に捕えたままにしておいてくれ。俺は 少しでも瞬の側にいたい。いっそ瞬の奴隷として、俺を召し抱えてくれ。瞬に心からの忠誠を誓う」
「何が『心からの忠誠を誓う』だ。『自分の助平心にこそ忠誠を誓う』の間違いだろう」
タナトスが氷河の必死の訴えの揚げ足を取る。
瞬は、ハーデスがどんな判断を下すのか、考えることもできなかった。
氷河は自分で自分の首を絞めるようなことしか言わないのだ。
ハーデスの考え以上に、氷河が何を考えているのか――あるいは何も考えていないのか――が、瞬には理解できなかった。

もしかしたら、ハーデスも そうだったのかもしれない。
氷河の真意(言葉以外に真意があるとしての話だが)を察することが、ハーデスには時間の無駄に思えたのかもしれない。
彼は、最終的に、瞬同様 氷河の真意を考えることを放棄したようだった。
「この者を城から追い出せ。氷河とやら。殺されぬだけ儲けものと思うがよい。余が寛大な王であることに感謝せよ。否、そなたは むしろ そなた自身の愚かさに感謝すべきか。そなたが、処刑に値しないほど愚かすぎることに」
ハーデスの寛大さ、自分自身の度外れた愚かさに、はたして氷河が感謝したかどうか。
「俺をこの城に――瞬の側に置いてくれ!」
ハーデスの裁定が下っても、氷河はまだ何か わめいていたが、やがて彼はヒュプノスに呼ばれた衛兵たちに引っ立てられ、玉座の間から――そして、城内から――追い払われてしまったのだった。

そして。
「ったく、こんなガキのどこがいいんだか。ハーデス様も、あの恋狂い男も!」
音量を抑えていないタナトスの悪態を聞いて、瞬は、漆黒のカーテンの向こうにいたはずのハーデスが、今はもう そこにいないことを知ったのである。






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