ともかく、これで一連の騒動は終わり、これに懲りた氷河がハーデスの後継者に会いにくることは もう二度とないだろう。 瞬は そう思っていた。 大きな安堵と、一抹の寂しさを胸中に置いて。 ところが、何ということか。 その2日後、氷河はまたしても王城内への侵入を果たしてしまったのである。 しかも、その時 最初に彼の姿を発見してしまったのは瞬自身で、その場所は王城の最奥にある瞬の寝室だった。 眠りが浅いわけではないのだが、住み慣れた下町の古くて小さな家から この城に連れてこられて以来、瞬は人の気配に敏感になっていた。 ほぼ真円の月の夜。 人の気配を感じ、瞬は 無意味に広い寝台の上に上体を起こした。 「誰っ」 それが根も葉もない無責任な噂だということは、誰よりも瞬自身が知っている。 まさかハーデスが彼の後継者の寝室に忍んでくるはずはない。 だが、ハーデスの深い寵愛を受けているという噂を持つ瞬の寝室に、ハーデス以外の人間が忍び込んでくる可能性は なおさらない。 ではいったい誰が、何の目的で、王の愛人(と思われている人間)の部屋に忍び込んでくるというのか。 瞬はまず、何よりも暗殺の可能性を考えた。 瞬の死がハーデスに打撃を与えられると勘違いしての、反政府者の暗殺の可能性を。 それならそれでもいいと半ば開き直った気持ちで、瞬は その暗殺者の顔を確かめようとしたのである。 「何者です。僕を殺しにきたの?」 二度目の瞬の誰何にも、侵入者は答えを返してこなかった。 やがて それまで月を隠していた雲が流れ、部屋の中に ほの白い月の光が射し込んでくる。 月の光の中に陽光のような金色の光――金色の髪。 そこに立っていたのは氷河だった。 何か とんでもないものを見てしまい、自失しているような氷河の青い瞳がそこにあった。 「氷河……?」 彼は、瞬に名を呼ばれ、月の光の中で はっと我にかえった――ようだった。 続いて彼がとった行動を どう解すればいいのだろう。 彼は、瞬の顔と声を認めると、 「しまった……!」 と、短く舌打ちをした。 そして そのまま踵を返し、彼は瞬の前から逃げようとしたのである。 だが、瞬は彼の逃亡を許さなかった。 寝台から飛び起き、その勢いのまま前方倒立回転の態勢に入り、広い部屋の扉に辿り着く直前の氷河の前に着地する。 それは、部屋の広さと天井の高さを把握しているからこそ できた芸当だった。 逃げ道を塞がれる格好になった氷河が 素早く方向転換し、今度はバルコニーから庭への逃亡を図ろうとする。 その場所に関する知識のアドバンテージがなかったら、瞬は そのまま氷河に逃げられてしまっていたかもしれない。 瞬は、部屋の扉の脇にあるバルコニー側の緞帳を下ろす紐を引き、氷河の足止めを図った。 「ここがあなたの目指す場所なのではないの !? なぜ逃げるんです!」 瞬に問い詰められている間にも、氷河の目は 瞬と瞬の寝室から逃げる道を探していた。 その往生際の悪さに、瞬は短い吐息を洩らすことになったのである。 「あなたを捕まえてハーデスに引き渡す気はないから安心して。あなた、何者なの。僕が目的ではなさそうだけど」 「ハーデスに引き渡す気はない?」 その言葉が、氷河には意外だったらしい。 それはそうだろう――と、瞬は思ったのである。 瞬はハーデスによって 貧しい境遇から拾い上げられ、ハーデスの愛と庇護によって シェオルの国で最も贅沢な生活のできる境遇を与えられた人間である。 もしハーデスが その力を失うようなことがあれば、すべてを失う立場にある人間なのだ。 瞬がハーデスの意に沿わないことをするはずがないと、氷河でなくても考えるだろう――考えない人間は一人もいない。 氷河の考えがわかるから、その困惑がわかるから、瞬は、今 この場で性急に氷河から彼の事情を聞き出すことを断念したのである。 「バルコニーと扉と――好きな方から出ていっていいですよ。僕に協力できることがあるようなら、その時 あなたの事情を教えて」 氷河に そう告げて、瞬は寝具の中に戻った。 もしかしたら、その横に氷河が潜り込んできてくれるかもしれないという恐れと期待を 胸中に抱きながら。 しばらく その場に留まっていた氷河の気配は、だが まもなく、小さな音一つ、僅かな空気の揺れ一つ作らずに消えてしまっていた。 |