「なぜ俺を捕まえて ハーデスに引き渡さなかったんだ」 氷河が次に瞬の前に姿を見せたのは、その翌日――深夜だった。 昨晩 音もなく姿を消した時同様、いつのまにか彼は瞬の寝室の中にいた。 だが、瞬は、氷河の時を置かない再侵入に あまり驚かなかったのである。 彼には何らかの目的――表向きのそれとは違う何らかの目的があって、この国、この城にやってきたのだろうことは わかっていたし、その目的が何であれ、目的が果たされる時は早い方がいいに決まっている。 つまり、ハーデスの愛人が 彼に不利益をもたらす行動に出る前に。 もっとも、今の瞬には、彼の目的が何なのかということより、彼がハーデスの愛人に恋をしたのは事実なのか偽りなのかを確認することこそが最優先課題だったのだが。 「あなたが僕に恋い焦がれているというのは嘘? ただの振り? 恋に狂っている振りをして、怪しい行動を怪しまれないために、僕をだしにしたの?」 氷河に問われたことには答えず、自分の知りたいことを彼に問う。 氷河からの答えはなく、答えがないことが彼の答えだった。 「そう……。あれは ただの振り……恋した振りだったんだ……」 そう告げる声に、自分でも驚くほど力がない。 瞬は 決して 氷河に恋されたことを喜んでいたわけではなかったし、もちろん瞬自身が彼に恋をしていたわけでもない。 それが偽りの恋だったからといって、瞬が落胆する必要はないのだ。 にもかかわらず――にもかかわらず、瞬は落胆していた。 氷河の偽りの恋に傷付いていた。 「俺の阿呆ぶりは、おまえには迷惑だったろう。がっかりする必要はないはずだ」 「も……もちろんです。がっかりなんかしていません!」 “それほどの馬鹿”に恋などされても、迷惑なだけである。 それが“振り”だったのなら、これほど嬉しいことはない。 偽りの恋に がっかりしていることを 氷河に知られるわけにはいかず、瞬は 殊更きつい口調で断言した。 「なんだ……がっかりしてくれないのか……」 瞬のきっぱりした答えを聞いて、氷河が がっかりしたように両の肩を落とす。 「な……何なの、あなた!」 がっかりしているのは こっちの方なのに、恋を偽り 人を騙していた側の人間が、騙された側の前で がっかりしてみせるとは何事か。 瞬は、それこそ 思い切り彼を なじってやりたかったのである。 だが、すぐに思い直して、瞬はそうするのをやめた。 夜は短く、時間は限られている。 そして、散々 いいように からかわれたというのに、どういうわけか 瞬は氷河を憎んではいなかった。 「あなたは、この国の王位転覆を謀っているの? この国の侵略が目的?」 「俺の目的は――」 言いかけて――氷河が声を淀ませる。 この期に及んで それを言い渋られてはたまらないと、瞬は思ったのである。 偽りの恋で騙され振りまわされ、その上、その偽りの恋の理由さえ教えてもらえないのでは、氷河の偽りの恋にがっかりした自分が哀れすぎるではないか――と。 「言わないと、人を呼ぶよ」 「脅す必要はない。おまえが人を呼ばないことはわかっているし――ハーデスと、おまえの世話係の二人以外、俺を捕まえることのできる奴は この城にはいないだろう」 そう言ってから、氷河が まるで付けたりのように、 「ああ、あと一人、おまえがいたな」 と言う。 取ってつけたような苦笑を瞬に向けてから、腹をくくったように、彼は彼の目的を瞬に語り始めた。 「俺は、この国に人を捜しに来たんだ。世界の命運を左右する力を持つ人間が この城に囚われているはずで、その人を安全な場所に保護することが、今回の俺の使命だ」 「世界の命運を左右する力を持つ人間……? それはハーデスとは別の人なの?」 突然、それこそ青天の霹靂のように この国に現れたハーデスだけでも、シェオルの民には 奇跡――悪夢のような奇跡だったのだ。 彼の他にもまだ そんな力を持つ者が この国この城にいるなど、瞬には想像を絶することだった。 だが、氷河は、瞬に首肯してきた。 「その人間は、地上で最も清らかな魂の持ち主で、それゆえ特別な能力を持っているんだそうだ。その人間がハーデスの手に落ちれば、ハーデスは、今は この一国だけだが、地上世界全体を支配できる力を得ることになるらしい」 「地上で最も清らかな魂の持ち主? あ……そんな人がこの城に囚われているの?」 「ああ。この城のどこかに隠し部屋とか秘密の牢獄とか、そういうものがあるのだと思う。だが、この城は庭も建物の内部も広すぎて、とても一度きりの侵入で探索しきれるものじゃない。だから まあ、懲りない大馬鹿者を演じる必要があったんだ。誰に何度 見咎められても、いい言い訳になるだろう。おまえの寝室に忍び込もうとしていた――というのは」 「……」 氷河の馬鹿げた茶番の訳はわかった。 それはわかったのだが――そのせいで 瞬は、一層大きな混乱に囚われることになってしまったのである。 『地上で最も清らかな魂の持ち主』 ヒュプノスがそんなことを言っていなかっただろうか。 だからハーデスは、下町の貧しい孤児にすぎなかった自分を後継者に選び、この城に連れてきたのだと。 “後継者”というのは事実と異なり、ハーデスの本当の目的は“地上で最も清らかな魂の持ち主の特別な能力”であるらしかったが、いずれにしても 瞬は混乱せずにはいられなかった。 瞬には、自分を“地上で最も清らかな魂の持ち主”だと思うことはできなかったし、“地上で最も清らかな魂の持ち主”が持つという特別な能力も、瞬は持っていなかったのである。 「そ……そんな特別な力を持つ人なら、きっと王家の血を引いている姫君とか、由緒正しい大貴族の子弟とか、そういう人だよね?」 「何とも言えん。そうかもしれないし、そうではないかもしれん。魂の清らかさというものは、地位や身分に付随するものではないだろうし――。それが、守られるものなのか、育まれるものなのかも、正直、俺にはわからんのだ。守られるものなら、清らかな環境に在る者がそうかもしれないし、育まれるものなら、 相応に試練のある環境に在る者がそうかもしれん。俺は後者であるべきだと思っているが」 「じゃ……じゃあ、その人が 貧しい下町の孤児だということもあり得るの?」 「ないとは言えんな。虚飾まみれの貴族王族より、権力に縁のない無辜の民の方が“地上で最も清らかな魂の持ち主”である可能性の方が大きいのかもしれん」 「その“地上で最も清らかな魂の持ち主”が持っている特別な能力って、どんな力なの」 「その力については、俺も詳しくは知らん。ただ“地上で最も清らかな魂の持ち主”は――地上で最も清らかな魂の持ち主であるという そのこと自体が 既に稀有で、その存在自体が力と意味を持っている」 「……」 全身から血が引いていく感覚に、瞬は襲われたのである。 “地上で最も清らかな魂の持ち主”が自分なのか、そうではないのかということは、この際 問題ではない。 ハーデスが“地上で最も清らかな魂の持ち主”を瞬という子供だと信じ、その子供を手に入れるために この国を侵略したということが問題なのである。 そんなことのために、ハーデスが 長い歴史を有する王家を一つ滅ぼした――ということが。 瞬は、前王室に特段の恩義があったわけではない。 前王室の人々は、そもそも瞬の存在など知りもしなかっただろうし、前国王は 素晴らしい善政を布いていたわけでも、耐え難いほどの悪政を布いていたわけでもない。 前国王は、良くも悪くも普通の国王、良いところも悪いところもある普通の為政者だったのだ。 王族たちも そういう人間たちだったろう。 長所も短所もある普通の人々。 そんな普通の人々が、一介の貧しい孤児のために その地位を追われ、国王・王太子等 男性王族は その命を奪われさえしてしまった。 瞬は、とても冷静ではいられなかった。 |