「あ……僕……僕は……」
「瞬? どうかしたのか……?」
今夜、自分を騙した男が この部屋にやってくることを確信し、寝台に入らずに待っていたらしい瞬に、氷河は実は 先ほどからずっと気後れのようなものを感じていた。
悪意ではないにしても、到底 善意から出たものではない、偽りの恋で人を騙すという行為。
氷河が感じていた気後れは、騙していた人間(自分)が、騙されていた人間(瞬)に その考えを見透かされていた気まずさと焦慮が入り混じった、敗北感にも似た思いだった。
自分より優位に立っていると思い、引け目さえ感じていた相手が、突然 瞳に涙を盛り上がらせ、それだけならまだしも、他に頼るものとてない子供が 大人にすがりつくような目で、卑劣な嘘つきを見詰めてくることに、氷河は少なからず戸惑ってしまったのである。

「瞬……どうしたんだ……」
触れてもいいのだろうかと、一瞬 迷ってから、小刻みに震えている瞬の肩に そっと手を置く。
が、瞬は それで力づけられた様子はなく、むしろ ますます肩の震えを大きくし、項垂れるように顔を伏せてしまった。
目の前に、これほど頼りなげに これほど悲しげに涙を流している人がいたら、ここは やはり その肩を抱き慰めてやるべきだろうか。
そうしてしまってもいいのだろうか――。
氷河が胸中で そんなことを考え始めた時だった。
「ヒュペルボレイオスの氷河、瞬様から離れろ! それ以上 瞬様に近付くな!」
そう言って、ヒュプノスが瞬の寝室の扉を開け、室内に入ってきたのは。

俺が『頼りなげに悲嘆の涙にくれている人は、優しく抱きしめ、誠心誠意 慰めてやらなければならない』という結論に至り、その結論を行動に移し終える時まで、室内突入を待っていてくれてもいいではないかと、氷河はヒュプノスの不粋を心から憎んでしまったのである。
とはいえ、今 この場所この場面で、その気持ちをハーデスの側近に訴え なじるわけにはいかない。
氷河は咄嗟に、恋に分別を失っている男の振りを再開した――そうせざるを得なかった。
「ついに瞬の寝室に辿り着いたぞ!」
実際、“瞬の寝室”という場所は歓喜に値する場所だったので、氷河の歓声は さほど不自然なものではなかったはずなのだが、ヒュプノスは 氷河が期待した反応を示してはくれなかった。
恋のせいで周囲が見えなくなっている男への軽蔑も、懲りずに王城内に侵入した男への怒りも、ヒュプノスは露わにしなかった。
代わりに彼は、
「阿呆の真似はやめろ。貴様の正体は もうわかっている」
と、冷ややかな口調で告げてきた。

「俺の正体とは……何のことだ。俺は瞬に――」
「阿呆の真似はもうしなくていいと言っただろう。昨夜、私はなぜ 貴様の侵入に気付いたのか、それが不思議だったのだ。ただのネズミなら、そんなものが城内に何匹入り込んでも、私はいちいち それらを意識することはないはずなのだ。だが、ちょうどそこに、聖域のアテナが動き出したという知らせが飛び込んできた。一瞬で謎が解けたぞ。貴様はアテナの聖闘士だな」
「……」
否定も肯定も無意味。
そして、時間の無駄。
氷河の沈黙の答えに満足したのか、ヒュプノスが僅かに顎をしゃくる。

「聖域のアテナは、神話の時代からハーデス様との聖戦を繰り返してきた、ハーデス様にとっては不倶戴天の敵。そのアテナに仕える聖闘士が、よく単身で この国に乗り込んできたものだ。その度胸は褒めてやらぬこともないが、その前に貴様の命を奪ってしまおう。聖闘士本来の力は使えないぞ。この城にはハーデス様の結界が張られている」
「……」
ヒュプノスの言う通りだった。
この城にはハーデスの結界が張られていて、アテナの聖闘士は その力を本来の10分の1も発揮できない。
であればこそ氷河は、目くらましのために“恋のために分別を失った愚かな男”という聖衣をまとっていたのだ。

ヒュプノスとタナトスは普通の冥闘士ではない。
ハーデスほどではないにしろ、彼等はハーデスに準ずる力を持っている。
まさしく絶体絶命。
大人数で動く危険を考え、単身でこの国に乗り込んできた氷河には、仲間の援護も期待できない。
もはや逃げる道はすべて断たれた――そう察し、覚悟を決め、氷河は唇を歪めたのである。
その時。
「僕を盾にして逃げて。ハーデスは僕を傷付けることはしない」
と、瞬が氷河に小声で囁いてきた。
「なに」
「武器はないの」
「ない。今夜は俺は おまえに会いたかっただけだったから」
「え?」
「いや……」

絶体絶命の危機。
だが、氷河の中には、不思議に諦観も自棄の気持ちも生じていなかった。
瞬を盾にして逃げるのは思いもよらないことだったが、ハーデスが瞬を傷付けることはないという瞬の言葉が、氷河の心を安んじさせてくれたから。
そればかりか――騙すつもりはなかったが 結果的に そうなってしまった卑怯者に、瞬は 自分を盾にして逃げろと言ってくれている。
『このまま死んでしまえばいい』と思うほどには、瞬は 自分を騙した卑怯者を憎んではいないのだ。
それは、氷河には法外の喜びだった。
そんな氷河の胸の中に、瞬が突然 背中から飛び込んでくる。
そうして、欠け始めた頼りない月の光(むしろ薄闇)と氷河の胸の中で、右手を自ら後ろ手にして 顔を伏せ、瞬は聞きとるのがやっとの小さな声で 訳のわからないことを言い出した。

「『このガキに怪我をさせたくなかったら、そこをどけ』」
「なに……?」
「そう言って」
「しかし……」
「早くっ」
「このガ――瞬に怪我をさせたくなかったら、そこをどけ」
瞬の声には――それは実はテレパシーの類なのではないかと思うほど小さな声だったのだが――逆らうことのできない力があった。
氷河は、瞬に言われた通りの言葉を口にしていた。

「『ハーデスへのご注進は夜が明けてからにした方がいいぞ』」
「なに?」
「いいから、言って……!」
瞬の声には 氷河に有無を言わせぬ響きがあり、そして、瞬は かなり気が昂ぶり 焦慮に囚われているようだった。
瞬の気に障らぬよう、氷河は その指示に従うしかなかったのである。

「『無駄な血は流したくはない。俺が無事にこの城の外に出られたら、このガキは解放する。おまえたちは、不埒者の侵入を許した自分たちの失態をハーデスに報告せずにいることもできる。その方が、おまえたちの立場も悪くならずに済むのではないか』」
今度は結構な長文。
『このガキ』を『瞬』に置き換えて、氷河が その言葉を正しく復唱したのは、この程度の文言を覚えることもできない馬鹿者と、瞬に思われたくなかったからだった。
そして、瞬が何を考えているのか、おおよそのところが 氷河にもわかってきたから。
瞬は、自分を盾にして、自分を騙した男の命を救おうとしているのだ。
しかし、そううまくいくのか――計画の成否を怪しみながら、氷河は、人質をとった悪漢を装い、ヒュプノスたちを牽制しながら、扉の方に移動した。
扉を開けると、そこに長い廊下が出現する。

「おい、瞬」
「僕の手を引いて、東の出口に向かって走って! 僕から離れないで。氷河一人では逃げられないから」
それは氷河にもわかっていた。
ヒュプノスたちは、その気になれば、1秒以上の時間を費やさずに不届きな建造物侵入者の命を奪うことができる。
彼等がそうしないのは、ひとえに瞬を傷付けるわけにはいかないから。
ヒュプノスたちが ある程度の距離を置いて 逃げる二人を追ってくるのも、逃亡者たちを追い詰めて瞬に転倒されでもしたらまずいと考えてのことのようだった。
瞬の身に、かすり傷一つ 負わせるわけにはいかないから。

「ハーデスに仕えている人たちは、ハーデスに自分の失態を知られることを何よりも恐れているの。ハーデスは、彼が無能と判断した部下に容赦がないから。ヒュプノスやタナトスだって、例外じゃない。氷河の侵入を許したことを ハーデスに知られずに済むなら、あの二人だって、すべてを内密裡に収めたいはずなんだ」
氷河よりはるかにハーデスの人となりを知る瞬の判断は、おそらく正鵠を射たものだったのだろう。
実際、瞬を盾にする形で、氷河と瞬は、城内から庭に、庭から正門までの移動を果たすことができたのだった。

城の最奥の部屋から幾つかの棟を経て門まで移動してくる間に、逃亡者たちの姿は多くの兵の目に留まり、遠巻きにしながらとはいえ、二人を追う者の数は、ヒュプノス、タナトスの他に衛兵が50名ほどまでに増えていた。
とはいえ、あとから追っ手に加わった者たちは、その数がどれほど増えても脅威にはなり得ない者たちだったが。






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